【あさが来た】蔵野炭鉱(加野炭鉱)のモデルは潤野炭鉱

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NHK連続テレビ小説「あさが来た」より。

この記事では、加野屋が新しい商いを模索した末に買い取ることになる九州の「蔵野炭鉱(炭坑)」について、それに蔵野炭鉱のモデルとなっている「潤野炭鉱」のあった場所、歴史などをまとめます。

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目次

加野屋が買収する蔵野炭鉱

新しい商いを模索していたあさ(波瑠)は、新次郎(玉木宏)の三味線仲間・山屋与平の話により「石炭」という新しい商いを知ります。

やがて加野屋が買い取ることになるのが、九州・筑前の蔵野炭鉱(くらのたんこう)です。蔵野炭鉱は炭鉱主の夫を亡くした櫛田そえという女性が所有していたもの。そえは炭鉱事業を真剣に考えているあさの態度を見て、加野屋への売却を決断します。

炭鉱に乗り込むあさ

明治5年(1872年)、あさは亀助(三宅弘城)を従えて荒くれ者の炭坑夫が待つ蔵野炭鉱へと乗り込みます。その懐には五代(ディーンフジオカ)から「お守り」として渡されたピストルを携えていました。

この炭鉱での男たちとのやり取り、騒動は「あさが来た」の見せ場の一つであり、モデルとなった広岡浅子の豪快さを物語るエピソードでもあります。

蔵野炭鉱モデルは飯塚市・潤野炭鉱

蔵野炭鉱(後に加野炭鉱)のモデルとなっているのは、福岡県飯塚市(当時は嘉穂郡鎮西村)にあった「潤野炭鉱(うるのたんこう)」です。明治19年(1886年)、広岡浅子は37歳の時に潤野炭鉱を買収しています。(※ドラマでは明治4年に蔵野炭鉱を買い取っており、時系列に大きな差があります。)

九転十起生 諦めない浅子

浅子は意気込んで炭鉱経営を始めたものの、炭鉱には大きな断層が立ちふさがり、思っていたような産出量が出ず、結局休業を余儀なくされます。

しかし諦めない浅子は明治28年(1895年)に同炭鉱の再開発に着手。自ら九州に乗り込み、時に炭鉱で生活をともにしながら炭坑夫を叱咤激励します。その成果もあり、明治30年(1987年)頃からは産出量が急増し、見事優良炭鉱へと変貌していきます。

地元の村誌には、当時はまだ見慣れぬ洋装で浅子が炭鉱の開削を監督し、荒くれ者たちを指揮、叱咤激励したという記録が残っています。また、地元では浅子がピストルを懐に坑夫らと渡り合ったと伝えられており、男たちの世界で堂々と渡り合った浅子の姿は、当時の炭坑夫をさぞ驚かせたことでしょう。

嘉穂高校あたり 「花子とアン」伊藤伝右衛門の炭鉱も近い

▼潤野炭鉱があったとされる県立嘉穂高校付近。

その後、潤野炭鉱は1899年(明治32年)に売却されます(後に日鉄二瀬鉱業所)。売却後の1903年(明治36年)には死者64人を出すガス爆発(潤野鉱本坑)を起こすなどし、1963年(昭和38年)に日鉄二瀬鉱業所はその歴史に幕を閉じています。

潤野炭鉱(二瀬鉱業所)は現在の福岡県飯塚市・嘉穂高校から若菜小学校付近にあったとされます。嘉穂高等学校正門南側の鬱蒼とした木々の中に「日鉄二瀬鉱業所潤野坑跡の墓地」があり、爆発事故の慰霊碑が残ります。

余談ですが、「花子とアン」で登場した九州の炭鉱王・嘉納伝助のモデル、伊藤伝右衛門が所有していた「牟田炭鉱」も飯塚市潤野地区にあったとされ、ご近所です。

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