【いだてん】金栗四三のオリンピックでの成績、結果は?

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NHK大河ドラマ「いだてん」より。

日本初のオリンピック選手としてストックホルム大会に挑んだ金栗四三の本大会での成績(史実)をまとめます。

金栗四三 ストックホルム五輪・結果

10000m走とマラソンへの出場を予定していた金栗でしたが、マラソン競技に専念するために10000m走は棄権しています。

マラソン(参加19カ国、68人)距離=40.200km

記録…一時不明、最下位(参考記録:54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3)

ポルトガル代表のラザロがレース途中で倒れて亡くなるなど、猛暑により過酷なレースとなったストックホルム大会のマラソン競技。

金栗は5マイル(約9km)までは快調に飛ばしたものの、10マイル付近で失速して落伍。やがて意識朦朧となりコースを外れて林に入り込み、「ペトレ家の庭」に迷い込んでいます。金栗はペトレ家により介抱されたもののそのまま翌朝まで意識を失い、結局レースには戻れませんでした。

この時の金栗の扱いは「途中棄権」ではなく、レース中の「失踪」「行方不明」(棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず)。

現地ではマラソンレース中に日本人がこつ然と姿を消したと話題になり、金栗が沿道の家庭でお茶会に誘われ、そのままマラソンを中断したという噂まで流れました。

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4年後、8年後、12年後のオリンピック

金栗はストックホルム大会から4年後のベルリン大会(1916年開催予定)への出場を目指し、鍛錬を続けました。1914年の第二回陸上競技選手権大会では記録を2時間19分30秒まで縮めるなど期待の声が集まりましたが、25歳で迎えるはずだったベルリン大会は第一次世界大戦の影響で中止。

ストックホルム大会から8年が過ぎた1920年のアントワープ大会に出場したものの2時間48分45秒4で16位、1924年のパリ大会では途中棄権をしています。

金栗はその後、箱根駅伝の創設に関わるなど生涯に渡り日本の長距離界の発展に尽くしました。自身はオリンピックで満足な成績を残すことはできなかったものの、数々の名ランナーを輩出し続ける日本長距離界の礎となったのです。

54年後の「ゴールイン」

初めてオリンピックの舞台に立ったストックホルム大会から半世紀以上が過ぎた、1967年。ストックホルム大会55周年記念行事に招待された75歳の金栗は、現地で粋な計らいを受けています。

ストックホルムの競技場をゆっくりと走った金栗は用意されていたゴールテープを切り、ついに54年越しの「ゴールイン」。

場内には「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイムは54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3。これをもって、第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とのアナウンスが流され、金栗も「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」と洒落たスピーチを残しています。

ストックホルム大会の金栗の記録は「棄権」ではなくあくまで「一時行方不明」であり、長い年月の末にようやくゴールまでたどり着いたわけです。

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▼この記事は、「箱根駅伝に賭けた夢」を参考に書いています。金栗四三の人生を詳しく知りたいならば、この本がオススメです。

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