【いだてん】三島弥彦のオリンピックでの成績、結果は?

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NHK大河ドラマ「いだてん」より。

日本初のオリンピック選手としてストックホルム大会に挑んだ三島弥彦の本大会での成績(史実)をまとめます。

三島弥彦 ストックホルム五輪・結果

1912年(明治45年)のオリンピック・ストックホルム大会で、三島は100m走、200m走、400m走に出場しています。レース結果は以下の通り。

▽100m予選(第16組)…5着(最下位)

トップと1秒以上の差をつけられ大敗、最下位。意気消沈して「金栗君。日本人にはやはり短距離は無理なようだ」と弱気発言。

▽200m予選(第13組)…4着(最下位)

続く200m予選では、アメリカ、イギリス、ドイツの3選手に破れて4人中4位。またしても最下位。

▽400m予選(第4組)…2位(最下位)※予選通過、決勝は棄権

100m、200mで金メダリストを獲得した選手が他選手に謙譲して棄権した影響もあり、三島は2位で予選通過(とはいえ2人中2位の最下位)。決勝進出の権利を得たが、「右足の痛み」により棄権。後年の資料には三島は「精神的肉体的困憊のため」、あるいは「勝機無しと見たため」に棄権したとする記述もあり。

▼この記事は、「箱根駅伝に賭けた夢」を参考に書いています。金栗四三の人生を詳しく知りたいならば、この本がオススメです。

オリンピック後の三島弥彦は?

1912年のストックホルム大会終了後、三島弥彦は4年後のベルリン大会での雪辱を金栗四三や嘉納治五郎と誓っています。

三島は閉会式を待たずに次回五輪開催地のドイツに向かい会場を視察するなど、ヤル気に満ちあふれていたようです。

しかし、1916年に開催予定だったベルリン大会は第一次世界大戦の影響で中止。さらに4年後の1920年アントワープ大会では三島は34歳となっており、肉体的なピークをすでに過ぎていました。三島はアントワープ大会の国内予選に参戦すらしておらず、結局、三島弥彦のオリンピック出場はストックホルム大会の一度きりとなっています。

銀行マンとして人生を送る

私生活では、オリンピック出場の翌年である1913年に東京帝大を卒業し、兄・彌太郎がいる横浜正金銀行に入行。青島支店の支配人、本店での検査人などを務め、スポーツの世界から離れた銀行マンとして人生を送っています。

オリンピックに出場したことは周囲に語らず、妻も夫がオリンピックに出場したことを当初は知らなかったとか。

金栗四三がアントワープ大会(1920年)、パリ大会(1924年)にも出場し、箱根駅伝の創設に関わるなど日本長距離界の礎となったのとは対象的な人生を送っています。

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