【いだてん】竹野内豊の謎英語(ルー語)が話題に 大森兵蔵とはどんな人物?

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NHK大河ドラマ「いだてん」第4回では、竹野内豊演じる大森兵蔵が登場。

二枚目俳優である竹野内豊が「ルー語」らしき言葉を駆使する謎設定が話題になりました。

アメリカ帰りの大森兵蔵 妻・安仁子を連れて

竹野内豊演じる大森兵蔵(おおもり・ひょうぞう)は、「いだてん」第4回から登場しています。

1911年(明治44年)、嘉納治五郎主導により立ち上がった「大日本体育協会」(現在の日本体育協会)の理事に就任した兵蔵は、アメリカへの留学経験を活かし、羽田運動場設営に貢献するなど日本のオリンピック初参加に深く関わっていくことになります。

ルー語?竹野内豊の謎英語が話題に

第4回放送では、アメリカ出身の妻・安仁子(シャーロット・ケイト・フォックス)とともに大日本体育協会を訪ねた兵蔵が、以下のような謎英語を繰り出し、嘉納治五郎や可児徳らを戸惑わせています。

兵蔵「(運動場の設計図面を見て)ワァオ!日本でオリンピックのクォーリファーイラゥンド(qualifying round)が開催する日が来るとは!」(安仁子訳:予選ね)

兵蔵「ワーォルドレコードゥ(world record)にレィヂィスゥトレィション(registration)するなら」(安仁子訳:世界記録に登録するなら)

兵蔵「ワーォルドスタンダァードゥ(world standard)なステーィディアム(stadium)をつくるべきです」(安仁子訳:世界基準の競技場をつくるべきです)

兵蔵「いちいち訳さなくていいよぉ、安仁子」
安仁子「damn shit!(くそったれ!)」


なぜかルー大柴の持ちネタ「ルー語」(ex.トゥギャザーしようぜ、ヤブからスティック)のように、英語を乱用しながら会話を進める兵蔵。さらには英語が母語である安仁子が、兵蔵の「ルー語」をいちいち日本語に訳すというやり取りが余計にカオスさを演出していました。

ちなみに竹野内豊は留学経験はないようですが、役作りのために英語を猛勉強した時期があるそう。映画「シン・ゴジラ」では英語力に長けた内閣総理大臣補佐官訳を演じており、日系三世のバイリンガル役を演じた石原さとみよりもはるかに高い英語力を披露していましたね。

日本にバスケ、バレーを紹介 大森兵蔵

以下、大森兵蔵の簡単なプロフィールをまとめますが、一部今後のネタバレとなってしまう内容も含みますのでご注意ください。

大森兵蔵は1876年(明治9年)生まれ、岡山県出身。アメリカに留学してマサチューセッツ州スプリングフィールドにある国際YMCAトレーニングスクール(体育学校)で学び、卒業後の1908年に帰国しています。

留学中には20歳年上の米国人女性アーティストAnnie Shepley(アニー・シェプリー=結婚・帰化した後に安仁子を名乗った)と結婚しています。兵蔵は当時の日本では非常に希少な、西洋文化に深く触れた人物といえます。

帰国後は東京YMCAで体育指導主事となり、体育教育の推進を図っています。兵蔵はバスケットボール、バレーボールを初めて日本に紹介したことでも知られます。

また、安仁子とともに1911年に東京・新宿に児童福祉施設「有隣園」を設立し、めぐまれない子どもたちに手を差し伸べています。

ストックホルム五輪で選手団の監督を務めるが…

1911年には大日本体育協会の理事となり、翌1912年のストックホルムオリンピックに日本選手団の監督として参加。安仁子と一緒にストックホルムに赴いています。

オリンピック終了後、兵蔵は帰国の途中で安仁子の故郷・アメリカへと立ち寄ります。しかし1913年にカリフォルニア州パサデナで、かねてから患っていた肺結核により36歳の若さで亡くなっています。

「いだてん」に兵蔵が初登場したのが1911年のことですから、この時からわずか二年後に亡くなってしまうことになります。

安仁子は兵蔵が亡くなった後も日本に残る選択をしています(兵蔵の遺骨とともに日本に帰国)。帰国後の安仁子は引き続き有隣園の運営に携わり、関東大震災発生後には被災地でボランティア活動を行うなど人々に寄り添う人生を送り、第二次世界大戦のさなかの1943年に亡くなっています。

▼大森安仁子は翻訳家としても活動。1920年には安仁子が翻訳した「Diaries of court ladies of old Japan」(更級日記・紫式部日記・和泉式部日記)が出版されています。

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