【いだてん】二階堂トクヨ 日本女子体育大学の創立者

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NHK大河ドラマ「いだてん」で、寺島しのぶが演じる二階堂トクヨについてまとめます。

二階堂トクヨは、現在の日本女子体育大学の前身にあたる「二階堂体操塾」を開塾させた実在の女子体育教育者です。

四三を問い詰める二階堂トクヨ

二階堂トクヨは、第14回放送(4月14日)から登場する予定です。トクヨは永井道明(杉本哲太)の弟子で、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)で助教授を務めています。

トクヨはストックホルム・オリンピックで惨敗した四三を厳しく問いただします。トクヨは永井とともに、体育を単なる「娯楽スポーツ」と捉えるのではなく、強靭な肉体と精神を作り出すための体育教育として、推進していくべきだと主張します。

トクヨは、オリンピックで勝利することばかりに目が行っている四三ら現状の日本体育の在り方に反発し、新しい体育教育を学ぶためにイギリス留学に旅立つことになります。

女子体育教育の先駆者・二階堂トクヨ

この二階堂トクヨという人物は、日本女子体育大学の前身にあたる「二階堂体操塾」を開塾させた、実在の女子体育教育者です。

1880年(明治13年)に宮城県志田郡で生まれたトクヨは、福島県師範学校を経て東京女子高等師範学校文科を卒業し、石川県立高等女学校に赴任します。この時、得意だった国語の教師を務めるはずだったのが、最も苦手だった体操を任されてしまいます(トクヨは文学少女だった)。

ところが運命のめぐり合わせだったのしょう、体育専門学校の出身だったキリスト教宣教師の手ほどきを受けてスウェーデン体操とドイツ体操をミックスした体操を学んだことで、トクヨは「体育教育」という天職に目覚めることになります。

トクヨは体育教師として高知師範学校を経て、1911年(明治44年)に母校の東京女子高等師範学校の助教授となり、さらに女子の体育教育にのめり込んでいきます。「いだてん」第14回で四三に厳しい意見をぶつけたトクヨの姿は、この時期のものということになります。

すべてを捨てて「二階堂体操塾」を創設

その後、トクヨはさらなる女子体育教育に取り組むべく、イギリスのキングスフィールド体育専門学校に留学します。足掛け四年に渡る留学で広い教養と先進的な女子体育教育を学んだトクヨは、帰国後に再び東京女子高等師範学校に教授として戻っています。

トクヨは、留学時代に学んだ体育教育や先進的な教育手法を取り入れ、東京女子高等師範学校で女子の教育に携わります。また、個人雑誌「わがちから」を発刊し、体育を基盤とした人間教育の必要性を説いていきます。こうした教育者としての仕事の一方で、自らが理想とする体育教育の実現がままならない現状を憂い、長年体育家を要請する「体育研究所」の設立を念願していました。

しかし、いくら声高に主張しても世間では一向にそうした動きは見られません。「自分がやらなければ」と使命感を感じたトクヨは、ついに41歳にして自らの公職をすべて棄てて一切の収入を断ち切り、その熱意に賛同した人々の志を受けて、東京府荏原郡代々幡町代々木に「二階堂体操塾」(現在の日本女子体育大学)を設立させるに至っています(1922年=大正11年)。

▼現在の日本女子体育大学・烏山キャンパス(東京都世田谷区北烏山)。

人見絹枝も育てた女子体育教育の名門

トクヨの熱意により創設された二階堂体操塾では、心身の健全を目的とした体育教育をベースにし、全寮制のもと「女性らしさ」を基軸に全人的な教育が行われました。体育教育の研究所としての機能とともに、女子の専門教育、社会進出という時代の要請に応える専門教育機関として、多くの志願者が集まりました。

日本初のオリンピックメダリストとなった陸上競技選手・人見絹枝(「いだてん」ではダンサー・振付師の菅原小春が演じます)もこの二階堂体操塾で学び(1924年入学)、トクヨの薫陶を受けた一人です。

「二階堂体操塾」はその後日本女子体育専門学校、日本女子体育短期大学となり、1965年(昭和40年)には四年制大学・日本女子体育大学が誕生。トクヨの教育理念が現在まで脈々と受け継がれています。

▼1923年(大正12年)に関東大震災が発生すると、代々幡町にあった二階堂体操塾は現在の世田谷区松原へと移転しています。松原の校地は現在、日本女子体育大学附属二階堂高校、みどり幼稚園になっています。

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