マッサンのその後〜妻の死後、竹鶴政孝の辿った人生とは

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NHK連続テレビ小説「マッサン」は、エリー(シャーロット・ケイト・フォックス)の死により物語の終幕を迎えます。ドラマはマッサンのウイスキー人生の集大成となる「スーパーエリー」を完成させたことで最終回を迎えますが、モデルとなった竹鶴政孝は妻・リタの死後18年を生き、その人生を全うしました。

この記事では、昭和36年(1961年)に妻を失ってからの竹鶴政孝ならびにニッカウヰスキーの歩みをまとめます。史実を参考することにより、ドラマで描かれなかった「マッサンのその後」が想像できると思います。

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目次

リタの死後 グレンウイスキー製造へ意欲

竹鶴政孝はリタの死後、さらなるジャパニーズ・ウイスキーの高みを目指します。

竹鶴は莫大な投資により「連続式蒸留器」を導入し、「グレイン・ウイスキー」の製造を可能とします。それまでの日本のブレンデッド・ウイスキーはモルト・ウイスキーに「中性アルコール」を混ぜていたのですが、この投資により、より味に深い表情を生み出す「グレイン・ウイスキー」を混ぜることが可能になります。

「ハイニッカ」「ブラックニッカ」発売 余市名誉町民

昭和39年(1964年)、ニッカウヰスキーは日本で初めてモルト・ウイスキーとグレイン・ウイスキーをブレンドした「ハイニッカ」(二級ウイスキー)を発売します。翌昭和40年(1965年)には、同じくグレイン・ウイスキーをブレンドした「ブラックニッカ」(一級ウイスキー)を発売しています。

この「ハイニッカ」「ブラックニッカ」発売を受けてサントリー(鴨居商店のモデル)も対抗商品を発売し、熾烈な販売合戦が繰り広げられました。

竹鶴は「ブラックニッカ」を発売した昭和40年(1965年)に、それまでの功績を称えられ余市町の名誉町民に選ばれています。

宮城峡蒸溜所建設 勲三等瑞宝章を受章

昭和44年(1969年)には宮城県にニッカ第二の蒸溜所となる「宮城峡蒸溜所(仙台工場)」を建設しています。この「宮城峡」の地には「新川川(にっかわがわ)」という川が流れており、竹鶴は「ニッカ」の名と重なるその偶然に驚いたそうです。

同年、勲三等瑞宝章を受章。当初、竹鶴には勲四等での打診がありましたが、某ビール会社の社長が勲三等をもらっており、自分がここで勲四等をもらってしまうとウイスキー関係者が将来も勲四等になってしまう、として一度は固辞しています。

その後、昭和45年(1970年)にニッカウヰスキー代表取締役会長に就任。

愛妻とともに余市の丘に眠る

昭和54年(1979年)、東京都文京区の順天堂大学付属病院で肺炎のため没。85歳でした。竹鶴本人の希望通り、妻・リタが眠る美園の丘に葬られました。

竹鶴は愛妻・リタを日本に連れてきたことがリタの寿命を縮めたとして、悔恨の念も持っていたそうです。しかし、リタとの思い出の地であるスコットランド・エディンバラ再訪などを通して、やがて自分という人間に賭け、生涯を添い遂げようとしたリタの「決意」を理解するようになり、その悔恨の気持ちも消えていったそうです。(この部分は「ヒゲのウヰスキー誕生す(新潮文庫)」参照。)

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