【わろてんか】寺ギン率いる「オチャラケ派」とは?モデルは「反対派」か

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NHK連続テレビ小説「わろてんか」に登場するワード「オチャラケ派」。

この記事では、「オチャラケ派」についてまとめるとともに、「オチャラケ派」のモデルとなっていると思われる実在した流派「反対派」についてもまとめます。

寺ギン率いる「オチャラケ派」

「オチャラケ派」とは、芸人を寄席に派遣している太夫元・寺ギン(兵動大樹)が率いる集団で、80人ほどの芸人が集っています。

僧侶から転身して演芸の世界に飛び込んだ寺ギンは、伝統に重きを置く「伝統派」が幅を利かせる当時の大阪の演芸界に抗うように、誰もが気軽に笑える芸人たちを集め、彼らに寄席出演などの仕事を斡旋していきます。

「オチャラケ派」の笑いが人気を博すとともに、仕事が貰えるとあって多くの芸人たちが寺ギンのもとへと集まり、「オチャラケ派」は一大勢力になっていきます。寺ギンはヒロイン夫婦とも関わっていくようですが、果たして敵か味方か…。

この「オチャラケ派」はドラマ上のフィクションの名称・団体ですが、明治末期から大正初期にかけて実在した「反対派」(浪速反対派、岡田反対派)がモデルになっていると考えられます。

伝統か革新か 分裂した大阪の演芸界

▼こんにちに至る大阪の笑いの歴史を知りたければ、この一冊がおススメ。少々分厚く重たいですが、上方落語から万歳、漫才、諸芸、そしてテレビの時代まで。気合たっぷりにまとめられた良書です。

「反対派」は、明治43年(1910年)頃に大阪で端席・富貴亭を経営していた興行師・岡田政太郎が立ち上げた芸人の集団です。

明治時代の大阪の演芸は落語が主流であり、寄席は落語を聞く場所だというのが「常識」でした。

明治7年、初代桂文枝の死去に伴い二代目襲名争いが起こると、大阪の演芸界は古き落語の伝統を重んじる保守的な「桂派」(※わろてんかでは「伝統派」として登場)と、滑稽話や色物も加え娯楽性を高めた「三友派」に分裂しました。当初は隆盛を誇った「桂派」ですが、年月とともに「三友派」の人気が上回っていきます。

岡田政太郎の「反対派」誕生

二大勢力誕生から30年以上後の、明治末期。場末の寄席を経営していた岡田政太郎は、娯楽性を高めて成功した「三友派」の路線をさらに突き詰めていきます。

岡田は、色物芸人も売れない落語家も下ネタ芸人も対等に扱い、「とにかく面白ければなんでもござれ」のびっくり箱のような演芸を追求。魑魅魍魎の三流芸人、色物芸人たちを自身の手元に集めて「反対派」を結成し、自身の寄席だけでなく他所の寄席にも芸人を派遣する「岡田興行部」(現在の芸能プロダクションのような存在)を設立しています。

この当時、工業化が進んでいた大阪には大量の労働者が流れこんでおり、安くて気軽な笑いを欲した彼ら労働者のニーズに、「反対派」の供給する笑いがマッチしていきます。こうして「反対派」は、「桂派」や「三友派」も無視出来ない一大勢力になっていきます。

吉本の創業にも関わる

岡田政太郎は、交流があった吉本興業創業者・吉本泰三(ヒロインの夫・藤吉のモデル)とタッグを組み、寄席経営を始めた吉本興行部にも芸人を供給。両者は重要なビジネスパートナーになっています。※「反対派」は岡田政太郎が亡くなると吉本陣営の「花月派」に吸収されていくことになります。

大阪の笑いの主軸が旧来の落語一辺倒から次第に色物、そして漫才へと推移していく過渡期に、「反対派」ならびに「吉本興行部」は時代を味方につけ力を伸ばしていきます。岡田政太郎をモデルにした「寺ギン」も、古い演芸界に殴り込みをかける「風雲児」となっていきそうです。

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