NHK連続テレビ小説「花燃ゆ」第4話より。黒船に乗り込もうとした寅次郎の経緯や理由がドラマでは余り詳しく描かれなさそうなので、補足的にまとめておきます。
黒船に乗り込もうとした松蔭と金子重輔
嘉永7年(1854年)のこと。ペリー再来航を知ると、吉田寅次郎(松陰)は黒船に乗り込んでアメリカへ密航する計画を企てます。この計画を知った長州藩の足軽・金子重輔もこれに同行することを強く願い出たため、二人で計画を実行することになります。
寅次郎たちは黒船に乗り込もうと手を尽くし、方々へ走り回りましたがことごとく失敗しています。ついには最終手段として、下田にやってきた黒船に小舟で強引に近付こうとします。
乗船拒否、故郷で蟄居、入牢へ
▲黒船・ポーハタン号。嘉永7年、ペリー日本再訪の際の黒船の一隻だった。
(画像はWikipediaより転載・パブリックドメイン)
この時、小舟で漕ぎ着けた先に居たのが黒船「ポーハタン号(外輪フリゲート艦)」でした。寅次郎たちは辿り着いたポーハタン号船上で首席通訳官・ウィリアムズと筆談を行いましたが、日米はお互いの法律を遵守する必要があることなどから、乗船を拒否されてしまいます。
結局密航を諦めた寅次郎らは翌朝に自首。自らの行いを洗いざらい話してしまいます。海外渡航を計画した罪で江戸伝馬町の獄に投獄され、国禁を破ったため重い処分が下ることが予想されましたが、その行動力、勇気に感じ入ったペリーが寛大な処分を求めます。
結局、寅次郎は国元で蟄居(ちっきょ)が命じられ長州へ戻り、藩の判断によって寅次郎は「野山嶽」に、金子重輔は「岩倉嶽」に入獄します。
▼入牢した「野山嶽」「岩倉嶽」の参考記事
・【花燃ゆ】吉田松蔭・金子重輔が投獄される「野山嶽」「岩倉嶽」とは?
松蔭がアメリカに密航したかった理由
寅次郎たちがこのように危険を侵してでもアメリカへと渡りたかったのには、理由がありました。それは下田で乗船を懇願した松陰らがアメリカ(黒船)側に渡した、ある文書に書き残されています。
「日本国江戸府書生・瓜中萬二(寅次郎偽名)、市木公太(金子重輔偽名)」との偽名を使って書かれたこの手紙には、「私たちは世界を見てみたい。もし密航が幕府に知られれば殺されるので、どうか慈愛の心をもって乗船させて欲しい」という旨のことが書かれていました。
外の世界との接触が禁じられている鎖国体制の中、寅次郎たちは危険を承知の上で、外の世界を見聞するために密航を願い出たわけです。
野山獄、岩倉獄での運命
結局この願いは叶わず、金子重輔は過酷な環境である「岩倉嶽」にて25歳の若さで獄死。寅次郎はその死を嘆いたと言われます。
日本を憂う気持ちが空回りする寅次郎ですが、入牢した「野山嶽」(1年2ヶ月入っていた)では600冊の本を読み、その他にも新たな人との出会いや、後に主著となる「講孟余話」の基礎となる解釈を練り上げるなど、決して無為ではない時を過ごすことになります。
▼吉田松陰の生涯については司馬遼太郎による「世に棲む日日」一、二巻で詳しく描かれています。