NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」2014年6月15日放送(第24回)より。黒田官兵衛(岡田准一)の主君であるバカ殿・小寺政職(こでらまさもと=片岡鶴太郎)が黒田方に捕らえられ、官兵衛に切腹を迫られるシーンがありました。
追いつめられた小寺政職は御着から逃走
荒木村重(田中哲司)、別所長治(入江甚儀)らと並び織田信長に背き、毛利方に寝返っていた小寺政職。
しかし荒木村重の有岡城が陥落し、別所長治の三木城もやがて落城。荒木一族は信長の命により「皆殺し」の処分が下され、別所長治もその命と引き換えに城兵達を助けるという厳しい取引に応じ自害。残された小寺政職にも、もはや逃げ道はありませんでした。
小寺政職は別所長治と同様に、自らの命と引き換えに家臣らを助けるよう進言されますが、これを断固拒否。ついには嫡男・斎(いつき)を連れて御着城から逃げ出してしまいます。
あっさりつかまる小寺鶴太郎
敗走を試みたものの、あっさり黒田勢に捕獲されてしまった小寺政職。縄でしばられた状態で官兵衛の前に連れて来られると、「縄をほどけ!わしは小寺政職などではない!」などと悪あがきを始めます。
「武士らしく腹をめされよ(切腹しろ)」と進言する官兵衛に対し、「できぬ!イヤじゃイヤじゃ!」と政職は駄々をこねます。
官兵衛自らの手で主君を…
さすがの官兵衛も情けない主君に呆れ、「かくなるうえは仕方がありませぬ」と覚悟を決めて小寺政職に斬りかかります。
しかし、黒田家にとって小寺政職は長年仕えた恩義ある主君。優柔不断なダメ武将ではありますが、決して根っからの悪人ではありません。官兵衛は小寺を斬りきれずその場に座り込んでしまい、政職と斎を逃がしてやります。
小寺政職と斎のその後
史実によれば政職はこの後、姫路の英賀(あが)を経て毛利領の鞆の浦へと逃れたそうです。逃走から4年後の天正12年(1584年)、鞆の浦で55年の生涯を終えています。
共に鞆の浦に逃げた嫡男の斎は、父の死後官兵衛によって播磨へ戻ることを許されます。斎は後の筑前国福岡藩士・小寺氏職(こでらうじもと)です。
小寺氏職は九州征伐後、黒田長政によって中津12万石を与えられ、後に官兵衛の招きによって中津に移り、客分として迎えられます。
(※ここでいう客分とは、没落したかつての領主などを自身と対等な立場として迎え、政治的カードに使うなどといった目的もあり保護したもの。言ってみれば緩やかな「飼い殺し」のような状態でしょうか。一応斎はもともと仕えていた小寺家の嫡男ですから、家臣にするわけにはいかなかったという事情もあると思われます。)
小寺氏職(斎)は1627年(寛永4年)、福岡の太宰府で没しています。