NHK連続テレビ小説「虎に翼」で女学校を卒業した寅子が通うことになる明律大学女子部(めいりつだいがく・じょしぶ)についてまとめます。
この明律大学女子部は、ヒロインのモデルである三淵嘉子さんが通った明治大学専門部女子部(後の明治大学短期大学)がモデルになっています。
【虎に翼】法律と出会い、「魔女部」明律大学女子部に進学する寅子
明律大学法学部の夜間部に通う書生・佐田優三(仲野太賀)にお弁当を届けたことをキッカケに、法律の授業に立ち会った猪爪寅子(伊藤沙莉)。
そこで明律大学の教授・穂高重親(小林薫)に法律家としての才覚を見出された寅子は、明律大学女子部法科への進学を穂高から勧められます。
明律大学女子部法科は、女性も弁護士になれる時代が来ることを見越して設立されたばかりの教育機関で、女子教育の普及に力を入れていた穂高教授が設立に尽力しています。この女子部で3年間学べば、男子学生と同じ本科(法学部)に進むことが出来ます。
寅子は、新進的な考えを持つ父・直言(岡部たかし)の後押しを受け、母・はる(石田ゆり子)の猛反対を押し切って明律大学女子部へと入学することになります。年齢や経歴、育ちがまったく違う個性的な学友たちと出会い、次第に法律の世界にのめり込んでいきます。
寅子が女子部に入学した当時の日本では女子は高等試験 司法科試験(現在の司法試験に相当)を受ける権利を有さず、わざわざ法律などという堅苦しい学問を学ぶ女性は物好き、奇人変人扱い。
そのため、女子部法科は本科である明律大学法学部の男子生徒たちから「魔女部」「嫁の貰い手がなくなる」などとバカにされ、寅子たちは悔しい思いを抱えていきます。
それでも女子に高等試験の受験の道が開かれるようになると、寅子は女子部を無事卒業。本科である明律大学法学部に進学し、本格的に法律家への道が開けていきます。
▼小林薫が演じる穂高教授のモデルは、渋沢栄一の孫にあたる法学者・穂積重遠。小林薫は「青天を衝け」で渋沢栄一の父・市郎右衛門役を演じています。
【史実モデル】明治大学専門部女子部がモデル
ドラマに登場する明律大学女子部は、ヒロインのモデルである法律家・三淵嘉子さんが通った明治大学専門部女子部 法科(戦後に発足する明治大学短期大学の前身)がモデルになっています。
▼現在の明治大学猿楽町校舎の脇にある階段(男坂)を下った所にあったという明治大学専門部女子部(法科、商科の二学科)の校舎。女子部は小さな木造2階建ての校舎で、本科の校舎から離れてひっそりとした雰囲気だったとか。
高等女学校→専門部を経て大学本科に進学が可能だった
1932年(昭和7年)4月、三淵嘉子さんは名門である東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)を成績優秀のうちに卒業すると、先進的な考えを持っていた父の勧めもあり、当時の女性としては極めて珍しかった法律を学ぶため、明治大学専門部女子部法科(3年制)に入学しています。
明治大学専門部女子部法科は、準備が進んでいた弁護士法の改正(=それまで「帝国男子に限る」とされていた高等試験司法科試験=現在の司法試験=の受験資格が女性にも与えられる等の改正案)を見越して1929年(昭和4年)に設立されたばかりの新設校。当時、東京で女性が法律を学ぶには明治大学専門部女子部に入学し、本科である明治大学法学部に進むというルートしかありませんでした。
いずれ女性も受験できるようになるであろう高等試験司法科試験は、大学の法学部に入学することで初めて受験資格が与えられることになります。高等試験司法科試験は東京帝国大学の学生でも半数は落ちるという、国内でも最難関の試験でした。
当時の大学(本科、学部)は旧制高校または大学予科を経ないと入学できなかったのですが、多くの私立大学が設置していた専門部や専門学校は、高等女学校のような中等教育機関を卒業していれば受験が可能。この専門部を卒業すれば大学(本科)への進学が可能であり、各大学に設置されていた専門部は大学本校に進学するための基礎を学ぶ場所として機能していたそうです。
▼明治大学専門部女子部の設立には、渋沢栄一の初孫で法学者だった穂積重遠(ほづみ・しげとお)が深く関わっています。穂積重遠は女子部の教授として三淵嘉子さんらを教えています。「虎に翼」では小林薫が演じる穂高重親として登場。小林薫は大河ドラマ「青天を衝け」で渋沢栄一の父親役を演じていましたね。
奇異の目で見られた女子部法科の学生たち
当時(昭和初期)は女性の社会的地位など皆無に等しく、良き夫のもとに嫁ぐことこそが女の唯一の幸せの道、正しい生き方だとされていました。
女性に生まれてわざわざ法律を学ぶなどというのは極めて奇怪な行動であり、何やら怪しい社会運動や共産主義活動をしているのでは?とか、口ばっかり達者で面倒な女、などと眉をひそめられることも多かったようです。三淵さんの母・ノブさんも、娘が法律などを学んでしまったら嫁の貰い手がなくなるとして、当初はずいぶんと法科への進学に反対し嘆いたそうです。
そんな厳しい風潮の中、三淵さんが入学した明治大学専門部女子部には学校を出たての16歳からシングルマザーの40代まで、実にさまざまな生い立ちを持った個性豊かな同期(法科は52名の新入生)が集まったそうです。女子部法科は一流の講師陣が集まる充実の教育機関でしたが、坂の下の古い木造校舎で学ぶ女子学生たちの姿は目立ったようで、男子学生たちからずいぶんと冷やかされたのだとか。
現在もそうですが、明治大学があるお茶の水、駿河台一帯は当時から日本有数の学生街であり、三淵さんら女子部の学友たちは講義が終わると連れ立って古書店巡りをしたり、少し足を伸ばして銀座の甘味処「若松」に行ったりと学生生活を楽しんだそう。また、歌が得意だった三淵さんは合唱団に入団し、その美声にファンも多かったとか。
ドラマ「虎に翼」でもこうした女子部時代の楽しい学生生活や、個性が強すぎる女子部の学生たちが見せる青春群像劇などが描かれていきます。
【日本初】専門部女子部出身の女性3名が高等試験に合格!
三淵さんは女子部(3年制)を卒業すると、1935年(昭和10年)に明治大学法学部(ドラマでは明律大学法学部として登場)へと進学し、今度は男女共学での大学生活を送っています。
1936年(昭和11年)には高等試験司法科試験の受験資格が女性にも与えられ、三淵さんは大学を卒業した1938年(昭和13年)に女性として初めて高等試験司法科試験に合格しています。
この時、三淵さんの他に中田正子さん、久米愛さんという2人の女性も試験に合格し3人は日本初の弁護士になっていきますが、彼女たちはいずれも明治大学専門部女子部の出身。女性初の合格にマスコミも沸き立ち、新聞記事は彼女たちの快挙を報じました。
大恐慌による不況や、戦争の足音の中で明治大学専門部女子部への志願者は減少を続け女子部廃止の危機などもありましたが、3人の快挙を受けて翌年からは入学希望者が急増していったそうです。
明治大学専門部女子部は、1944年(昭和19年)には明治女子専門学校に改組。戦後の1950年(昭和25年)には明治大学短期大学部(後に明治大学短期大学と改称)となり、2007年(平成19年)に廃止されるまで女子の教育機関としての歴史が受け継がれています。