NHK連続テレビ小説「虎に翼」第6週では、寅子の父・直言が帝都銀行を退職し神奈川の登戸で「登戸火工(のぼりとかこう)」という会社の社長になったシーンが描かれています。
このエピソードは、直言のモデルである武藤貞雄が登戸で火工品製造工場を経営していた史実がモデルとなっています。
「登戸火工」の社長に転身した直言
共亜事件から半年が過ぎた1937年(昭和12年)6月。
事件の被疑者に仕立て上げられ辛い目にあった直言(岡部たかし)は、その後に帝都銀行を退職し、自らの会社「登戸火工」を立ち上げているようです。
登戸火工は神奈川県川崎市の多摩川沿い、登戸に工場を構える火工品製造会社で、発煙筒や信号弾などを製造しています。
日本は同年の7月に日中戦争を開始させており、直言はエリートらしく時流を掴んだ業種で起業をしたといえます。登戸火工はすでに何人かのスタッフを抱えており、商品の開発も順調なようです。
猪爪家は東京の都心部・麻布笄町(あざぶこうがいちょう。現在の東京都港区麻布)にありますので、直言は毎日郊外にある登戸の工場まで通勤をしているようです。
※その後、高等試験への挑戦を断念した元書生の佐田優三(仲野太賀)も登戸火工で働き始めています。
【参考:共亜事件時に新聞で報道された、直言の華やかな経歴】
明治三十七年(1904年)帝大法科を卒業し帝銀に入りシンガポール支店に勤務、その後ニューヨーク支店に移るなど世界を股にかけ活躍、東京本社に戻つてきたあとは経理部に配属された、娘は今年四月から明律大学法学部で法律を学んでをり弁護士を目指してゐるがはたして夢は叶ふのか
▼第34回では登戸火工の社屋が登場。三重県四日市市のアミカン本社で撮影。
三淵嘉子の父・貞雄 登戸で火工品製造工場を経営
この直言の起業エピソードは、モデル人物である三淵嘉子の父・武藤貞雄が神奈川の登戸で火工業製品の工場を作った史実がもとになっています。
東京帝国大学を卒業し、台湾銀行に入行した貞雄はシンガポール支社勤務、ニューヨーク支社勤務を経験するなどエリート銀行員として活躍していました。
帝大卒のエリート銀行員として働いていた貞雄ですが、折からの不況もあり台湾銀行に見切りを付けると、華やかな経歴ゆえに引く手あまただったこともあり、1934年(昭和9年)頃にはすでに台湾銀行を退職。石原産業海運という会社の顧問に転職をしています。
※共亜事件のモデルである帝人事件は1934年(昭和9年)に発生していますが、この時にはすでに貞雄は台湾銀行を退職しており、帝人事件には関与していません。
その後、貞雄は1938年(昭和13年)頃には日本防災工業株式会社の社長に就任しており、昭和火工株式会社の専務も兼任。貞雄は一銀行員からのステップアップに成功し、麻布笄町の借家で暮らしていた武藤家の羽振りも良かったようです。
本格的な戦争の時代に入ると、貞雄は神奈川県川崎市の登戸に焼夷弾や発煙筒を作る工場を作ったようです。前述したように貞雄は昭和火工株式会社の専務などを経験していますから、この時に得た経験や人脈を頼りに、時流に乗った火工業の会社を起こしたのでしょう。
戦争が激しくなると、武藤家が住んでいた麻布笄町の家は軍の命令で引き倒しになり、一家は赤坂の高樹町に移住。やがて終戦が近づく時期になると、貞雄は妻の信子とともに登戸に移住し、工場の近くにあった社員寮に住みながら工場を守ったそうです。結果的にこの移住により、貞雄と信子は空襲を逃れることになります(※高樹町の家は空襲で焼失。嘉子は息子や義妹とともに福島に疎開していて無事)。
終戦後は登戸の工場が軍需工場だったこともあり操業ができなくなり、貞雄は意気消沈。生活が荒れて飲酒量が増え、肝硬変を患っています。
嘉子や弟家族も終戦後に両親がいた登戸に生活の場を移しており、「虎に翼」でもこうした史実に沿ったストーリーが描かれていくかも知れません。