NHK大河ドラマ「いだてん」第10回(3月10日放送)から登場するマラソンランナー、フランシスコ・ラザロについてまとめます。
「いだてん」第10回放送では、本大会に向けてストックホルムで練習を続けていた金栗四三がフランシスコ・ラザロ(ポルトガル)と出会う場面が描かれます。
ラザロと四三の出会い
ある日、四三(中村勘九郎)はロッカールームでポルトガル代表のマラソンランナー・ラザロ(エドワード・ブレダ)から声を掛けられます。ラザロは四三が履いている播磨屋製の足袋に興味を持ち、見せてほしいと声をかけたのです。(※このあたりの描写は、ドラマ上の脚色の部分が多いと思われます。)
ラザロは母国・ポルトガルで大工をしており、貧しくて電車に乗れずにいつも走って移動していました。こうした止むに止まれぬ事情により健脚となったラザロは、マラソン選手にスカウトされると好記録を残し、見事ポルトガル初のマラソン競技代表選手に選ばれてストックホルムへとやってきていたのでした。
四三は通学という不可抗力により健脚となった自身と似た境遇にあるラザロに親近感を覚え、替えの足袋をラザロにプレゼントします。果たしてラザロの本大会での成績は…。
ラザロは実在したマラソンランナーです。以下、ラザロに関するネタバレを含みますのでご注意ください。
悲劇のランナー フランシスコ・ラザロ
▼ストックホルム大会で走るフランシスコ・ラザロ。最高気温40℃の過酷なレース。画像はwikipediaから転載(パブリックドメイン)。
フランシスコ・ラザロ(Francisco Lázaro)は、1891年ポルトガル・リスボン生まれの長距離ランナーです。
1910年のリスボンマラソンのほか、国内の大会で三度の優勝を経験。ポルトガル初のオリンピック・マラソン競技代表選手として、21歳で1912年のストックホルム大会に参加しています(開会式では旗手も務めた)。
当時のポルトガルは、「ポルトガル共和革命」を経て長く続いた王政から共和制になったばかり。貧乏な家で生まれて大工をしていたラザロがオリンピックで走るということは、ポルトガルの新しい時代の到来を告げるものでした。
フランシスコ・ラザロの名は、悲しい形でオリンピックの歴史に刻まれています。
ストックホルム大会のマラソン競技当日(1912年7月14日)は、最高気温40℃という北欧としては異常な暑さでした。
マラソン競技は各国の精鋭68名のうちおよそ半数が途中棄権するという過酷なものとなり、レース終盤(残り8キロ付近)で脱水症状となり倒れたラザロは、病院に運ばれて夜通しの治療を受けましたが、翌日に死亡しています。
ラザロは日よけの帽子を被らず、日焼けと大量の発汗を防止するために身体の表面の大部分にワックスを塗りたくって競技に挑んでいたとのこと。結果的にこうした行為が発汗、体温調整を妨げて体温上昇や脱水症状を引き起こし、悲しい結末を招いたとされます。
近代オリンピック初の死者
近代オリンピックでの死者は、ラザロが初めてのことでした。ラザロ死去のニュースは参加選手や世間に大きな衝撃を与え、以降、ポルトガルでは長年に渡りマラソン競技は危険なものだと認識され続けました。
オリンピック終了後にはラザロを追悼する音楽会が催され、その収益はラザロの遺族に贈られています。
ラザロの故郷・ポルトガルのリスボンでは、彼の死をしのぶ「フランシスコ・ラザロ・メモリアル」のマラソンが毎年開かれています。
「いだてん」でもラザロの死が描かれていく予定です。
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