この記事は、「わろてんか・アサリのモデル 花菱アチャコ①芸人になった経緯、エンタツとの出会い」の続きです。
「わろてんか」に登場する芸人・アサリのモデル人物・花菱アチャコについて、「エンタツ・アチャコ」コンビ誕生以降、解散、戦後の活躍などをまとめていきます。
まったく新しい「しゃべくり漫才」
昭和5年、満を持して(?)誕生した伝説のコンビ「エンタツ・アチャコ」。
インテリでキザな丸メガネ・エンタツと、朴訥でお人好しに見えるアチャコが、「キミ」「ボク」の呼び名でテンポよく世相や流行を語るしゃべくり芸は、背広姿のスマートさと相まって人気を博していきます。
これまでの「万歳」のように古風な言葉や唄や踊りも登場せず、軽妙なしゃべくり一本で語る二人の姿は新しい時代を感じさせるものでした。この頃には、吉本の主導で定着しつつあった「漫才」という新しい呼称が、彼らの芸とともにさらに広く浸透していきます。
わずか4年弱で解散
▼エンタツ・アチャコ「早慶戦」の貴重な音源も収録された「昭和の漫才」。
持ちネタ「早慶戦」がラジオでも大ウケするなど一躍時代の寵児となったエンタツ・アチャコですが、4年と経たないうちにあっさりとコンビを解消してしまいます。アチャコが中耳炎で入院中に、エンタツは杉浦エノスケとコンビを組んでしまったのです(昭和9年)。※吉本主導とも、エンタツの計算とも言われるこのドタバタ劇に、アチャコも大きなショックを受けたとか。
以降、アチャコは以前の相方・千歳家今男と再びコンビを組み、エンタツとは映画でたびたびコンビを組むといった間柄になっていきます。
戦後も活躍したアチャコ
▼昭和27年の作品「アチャコ青春手帖 東京篇」。アチャコ50代の姿が見られます。
戦災で寄席のほとんどを失ってしまった吉本興業は、戦後、正之助の音頭により映画産業へと主軸を転換。それに伴い、吉本は昭和22年に全所属芸人との契約解消を通知(芸人たちの吉本への借金をチャラにするという条件)し、演芸部門を解散しています。
この時、唯一吉本に残った芸人がアチャコでした。アチャコは戦前に引き抜き騒動が勃発した際に「一生面倒を見る」という吉本の約束を得ていたため、例外的に契約の継続を認められたとか。
コンビ時代はエンタツの方が目立っていた「エンタツ・アチャコ」でしたが、戦後に関していえば、アチャコの方が目立った活躍を見せています。
アチャコはヒット映画「アチャコ青春手帖」や「お父さんはお人好し」に出演したほか、吉本新喜劇の前身「吉本ヴァラエティ」の看板芸人として活躍。高度経済成長期にもテレビ出演を続けるなど、広く愛される芸人として活動を続けました。
アチャコは昭和49年(1974年)、直腸がんにより77歳で亡くなっています。昭和46年(1971年)に横山エンタツが脳梗塞で亡くなってから3年後のことでした。
「わろてんか」でのアサリの見どころ
「わろてんか」では、アチャコをモデルにした冴えない男・アサリが、どのように成功の階段をのぼっていくのかが注目されます。
ヒロイン夫婦との出会い、俄芸人から漫才師への転身、そしてインテリ天然芸人・キースとの関係性や相性…。
当初のキースとアサリは何かと対立ばかりしてしまう間柄のようですが、一体どこの誰の采配で運命の二人がコンビを組むことになるのか、そしてコンビ仲は長く続くのか、その展開が楽しみです。