NHK連続テレビ小説「軍師官兵衛」第22話。官兵衛(岡田准一)とともに「両兵衛」として羽柴秀吉(竹中直人)を支えてきた軍師・竹中半兵衛がついに病死しました。
半兵衛の死因は肺炎または肺結核 享年36
「軍師官兵衛」劇中でたびたび結核のような症状が描かれてきた半兵衛。史実によれば半兵衛の死因は肺の病気(肺炎または肺結核)とされ、享年は36歳。天才軍師の若すぎる死に、秀吉は遺体に取りすがって泣いたと伝えられています。
平井山陣中での死 軍師として戦場で死んだ
▲竹中半兵衛肖像画。禅幢寺所蔵。(画像はWikipediaより転載)
「軍師官兵衛」劇中では、匿っていた官兵衛の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政=若山耀人)の滞在先である美濃・菩提山の「半兵衛の庵」から播磨・平井山(ひらいやま=現在の兵庫県三木市)の秀吉本陣に戻る様子が描かれました。
半兵衛曰く「このまま秀吉様にお会いせずに死ぬわけにはまいりません。それがしは軍師。死ぬのは戦場と決めております」との理由で播磨の本陣に戻り、そこで最期を迎えました。
史実の半兵衛の死 死を悟り戦場へ舞い戻る
史実では天正七年(1579年)4月、半兵衛は三木城攻防戦の最中に病で倒れ、秀吉の薦めで京都へ移って療養していたとの記録があります。しかし、半兵衛は戦況を案じて結局戦場へと戻ってきてしまいます。夜半にカゴで本陣に乗り付けると「なぜ帰ってきた」と問う秀吉に対し「陣中で死にたかったまででござる。」と答えたそうです。
結局半兵衛はこの三木城攻防戦の最中の6月13日に、平井山の陣中で病死しました。これは黒田官兵衛が有岡城から救出される半年前のことで、結局官兵衛は息子・松寿丸を匿ってもらった礼を半兵衛に伝えることは出来ませんでした。
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竹中半兵衛の墓
「竹中半兵衛の墓」はこの本陣のあった山に続くぶどう畑の真ん中、白い塀に囲まれてあります。この敷地は平井山観光ぶどう園内にあり、現在でも地元の人々によって手厚く供養されています。
6月13日の半兵衛の命日と一ヶ月後の7月13日には「軍師竹中半兵衛重治公を偲ぶ法要」が行なわれています。他に、三木市志染町の栄運寺、岐阜県垂井町の蝉幢寺などにも墓所があります。
竹中半兵衛の墓 DATA
住所:兵庫県三木市平井
アクセス:神戸電鉄粟生線「恵比須駅」下車 徒歩30分ほど