朝ドラ「ばけばけ」熊本編の内容、ストーリー予想 小泉八雲は嘉納治五郎、秋月悌次郎と出会い、長男・一雄も誕生

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NHK連続テレビ小説「ばけばけ」は、物語中盤に舞台が松江から熊本に移ることが予想されています。

この記事では、史実上のモデルである小泉八雲・セツ夫妻の熊本生活時代を参考に「ばけばけ」熊本編で起こりそうな出来事、ストーリー予想をしてみたいと思います。

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【ばけばけ・熊本編】内容、ストーリー予想

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まず初めに、レフカダ・ヘブンのモデルである小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の熊本時代を参考に、「ばけばけ」熊本編で発生しそうな出来事をざっと予想しておきます。

2025年12月初旬時点では熊本編の詳細なあらすじや登場人物は公表されておらず、以下はあくまで史実をふまえた予想ということでお読みください。

【ばけばけ・熊本編】内容、ストーリー予想

・松江のあまりの寒さに「ジゴク」だと怒るヘブン。二度目の冬が来る前に、オファーが舞い込んだ熊本の学校への転任を決意。後に熊本も寒いことに気が付いてキレる?

・一緒に暮らすようになっていた(内縁の妻?)トキも熊本に連れて行く。遅れてトキの両親も熊本に呼び寄せて同居開始か。給料も上がり、ヘブンは松野一家の大黒柱に。

・赴任先の学校でヘブンは校長の嘉納治五郎(柔道家、教育者)、同僚の秋月悌次郎(元会津藩士、漢学者)に相当する人物と出会い、深い尊敬の念を抱く。

・ヘブン、近代化して殺風景な熊本の街に失望する。軍都として発展していく熊本の街、西洋の価値観に傾倒している同僚らに馴染めず。

・住み始めた屋敷の前にカトリック教会が建てられてヘブンが憤慨、新たな屋敷へ引っ越す?

・トキとの間に長男が誕生。ヘブンは今まで味わったことがない幸福感を知るとともに、家族を守るために経済観念を身につけ始める?

・松江、山陰を中心とした日本の文化、風習、生活、風景などを綴った名紀行文集「知られぬ日本の面影」を書き上げる。短気なヘブンに代わり、トキが出版社との間を取り持つ?

・ヘブン、ニューオリンズ時代の古巣の新聞社から復帰の誘いを受ける?

・ヘブンに記者、作家としてもう一度輝きたいという思いが湧き上がり、神戸の英字新聞社と契約。一家で神戸に移住。

・熊本の居住期間は3年ほどか。

【史実】小泉八雲、松江から熊本へ移住 内縁の妻・セツも連れて行く

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レフカダ・ヘブンのモデルである小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、一箇所に留まらずに各地を転々と暮らした流浪の人として知られます。「ばけばけ」では松江、熊本、神戸(最終盤に東京も?)で暮らすヘブンとトキの姿が描かれると予想します。

【小泉八雲の主な居住遍歴】
ギリシャ・レフカダ島→アイルランド・ダブリン→イギリス・ロンドン→アメリカ・シンシナティ→アメリカ・ニューオリンズ→フランス領西インド諸島マルティニーク島→横浜→松江→熊本→神戸→東京

八雲は、1890年(明治23年)の夏に英語教師として松江に赴任しますが、そのわずか1年3ヶ月後の1891年(明治24年)11月に松江を離れて九州・熊本に移住しています。

この移住は、八雲が松江で過ごした最初の冬(ちょうど大寒波の年)に酷寒により酷い気管支炎を患ったことが大きな理由とされます。

二度目の松江の冬を迎えようとしていたタイミングで、ちょうど八雲のもとに気候が穏やかそうな(実際はそれなりに寒い)熊本の学校から教師としてのオファーが届き、移住を決断しています。

1891年秋、八雲はすでに内縁の妻となっていたセツ(トキのモデル)を連れて熊本に移り住むと、第五高等中学校(熊本大学の前身)の英語教師として働き始めています。後にセツの両親(稲垣家)も熊本に呼び寄せたようですね。

八雲の熊本での月給は松江時代の倍の200円であり、当時としてはかなりの高給取りでしたから、没落した一家をまるごと養うことも可能だったわけです。

※八雲とセツは、松江時代の1891年1月に西田千太郎(錦織友一のモデル)の勧めで非公式に結婚していたとされますが、戸籍上で正式な夫婦となるのはその4年後のこと。八雲が日本に帰化をして「入夫婚姻」という形で小泉家に籍を入れています。

【史実】八雲、第五高等中学校で嘉納治五郎、秋月悌次郎と出会う

▼大河ドラマ「いだてん」では、オリンピック招致に奔走する嘉納治五郎役を役所広司が演じています。

八雲は、松江とは違い近代化、都市化が進んでいた熊本の風景や文化に失望したとされます。また、赴任した第五高等中学校の同僚たちは西洋の思想に傾倒する者が多く、八雲の職場での居心地は良くなかったようです。

そんな熊本の第五高等中学校勤務時代ですが、八雲は同校の校長をしていた嘉納治五郎(柔道家、教育者)、同僚だった秋月悌次郎(元会津藩士、漢学者)という二人の偉大な人物と出会う幸運に恵まれています。

嘉納治五郎といえば柔道の大家(柔道の父)として知られ、柔道のみならず日本のスポーツ・教育分野の発展に尽力した人。国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、東京オリンピック(1940年。後に戦争の影響で返上)の招致にも成功しています。

八雲は西田千太郎への手紙の中で嘉納治五郎のことを「性格は同情心にあふれ、まったくかざらず正直です。これは人格のできた人の特色といえるでしょう。一度会っただけで、久しい友であるかのような気がするのです。」と称賛。後に嘉納治五郎が東京に赴任した際に、八雲はガッカリしたようですね。

また、同僚教師となった漢学者の秋月悌次郎(藩主・松平容保の側近で、八月十八日の政変などを主導)に対しても深い尊敬の念を抱いたそうです。会津藩士としての熾烈な過去を持ちながら、常に柔和な態度で生徒の尊敬を集めたという秋月悌次郎。八雲は「神が姿を表すとしたらこの老先生のような姿だろう」と秋月悌次郎のことを語っています。

「ばけばけ」熊本編でも嘉納治五郎、秋月悌次郎に相当する人物が登場すると予想します。

【史実】長男・一雄の誕生 「知られぬ日本の面影」執筆 助手・セツの存在

▼「知られぬ日本の面影」をはじめ、「神々の国の首都」「杵築―日本最古の神社」「日本人の微笑」など八雲の名著11編を新訳で収録。小泉八雲が古き良き日本をどう見たのかを理解すると、ドラマもより楽しくなります。

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熊本に移ってから2年後の1893年(明治26年)には、八雲とセツの間に長男の一雄(自身の「ラフカディオ」の「カディオ」からとった名前)が誕生しています。

すでに43歳になっていた八雲にとって子供が生まれたことは人生における大きな変化だったようです。八雲は一雄が誕生してすぐに、自分が死んでもセツと一雄にしっかりと財産が行くようにと意思を記した遺言状を書いています(アメリカに実弟、イギリスに異母妹がいた)。

この熊本時代、八雲は来日第一作となる名紀行文集「知られぬ日本の面影」を書き上げています。

鮮烈な印象がなお残る松江の文化、風習、生活、風景を中心に、これまで見てきた日本の美しさ、素晴らしさを西洋人の視点から叙情豊かに綴った「知られぬ日本の面影」は、八雲の出世作になっていきます。

「知られぬ日本の面影」にはセツが語ってくれた民話や伝承も随所に散りばめられました。また、短気な八雲が出版社からの契約条件に怒って手紙で契約書を突き返そうとすると、状況を察したセツが手紙をあえて投函せずにトラブルを回避させるなど、次第にセツは八雲のかけがえのない「助手」になっていきます。

松江、熊本で英語教師として生計を立ててきた八雲ですが、やがて古巣であるニューオリンズの新聞社から復帰の誘いを受けると、記者、作家としての血が騒ぎ始めたようです。

八雲は熊本で3年を過ごした後に、神戸の英字新聞「神戸クロニクル社」への転職を決意。いよいよ作家としての道を全うするために、家族とともに神戸へと移り住むことになります。

八雲・セツ夫妻にとって、熊本時代は「起承転結」の「承」から「転」へと向かう時期でしょうか。

「ばけばけ」熊本編も、ヘブンが作家としての足がかりを作り、夫婦に待望の子供が生まれ、夫婦、家族としての生き方が確立していく時期になるのではないかと予想します。

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