NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第2話では、蔦屋重三郎が吉原のガイドブック「吉原細見(よしわらさいけん)」で客を呼び寄せる案を実行していきます。
この「吉原細見」は蔦屋重三郎が「江戸のメディア王」へと登りつめていくキッカケとなった出版物ですので、その内容、詳細などをまとめます。
【べらぼう】老中・田沼意次の発破で覚醒 「吉原細見」に携わる
「べらぼう」第1話では、吉原の売れない遊女たちの貧困を目にした蔦屋重三郎(横浜流星)が老中の田沼意次(渡辺謙)に対し、無許可の風俗営業を行う岡場所や宿場などへの「警動(けいどう。私娼窟や賭場に対して不意に行う取締り)」を直談判しますが、逆に「吉原に人を呼ぶ工夫が足りないのでは?」と意次から発破をかけられています。
田沼意次にマーケティング思考を見せつけられ感銘を受けた蔦重は、「お言葉、目が覚めるような思いがいたしやした!まこと!ありがたや山の寒がらすにございます!」と深く感謝。これをキッカケに蔦重は覚醒し、吉原に人を呼ぶ工夫をこらしていくことになります。
吉原繁栄の第一歩として蔦重が思いついたのが、次郎兵衛の店「つたや」の店頭で売られていた遊郭の案内本「吉原細見」を利用して客を呼び寄せるというもの。その序文の執筆を依頼するため、蔦重は江戸きっての有名人である天才・平賀源内(安田顕)探しに奔走することになります。
蔦重は「吉原細見」の仕事を通して地本問屋・鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)から本作りや商売のイロハを教わり…。
※「べらぼう」第2話のタイトルは「吉原細見『嗚呼御江戸』」。蔦重は吉原細見の独占的な版元である鱗形屋孫兵衛のもとで、吉原細見の製作、販売に携わっていくことになりそうです。
【史実】蔦屋重三郎が最初期に携わった吉原細見「嗚呼御江戸」
▼安永3年(1774年)刊行、鱗形屋による吉原細見「嗚呼御江戸(ああおえど)」(出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200020645)。平賀源内の別名である福内鬼外の文字が見えます。蔦屋重三郎はこの「嗚呼御江戸」に卸、小売として参画して出版のイロハを学び、後に自らが版元となる吉原細見などを出版していきます。
「べらぼう」に登場する「吉原細見」は、江戸時代に実在した吉原遊廓の案内本、ガイドブックです。
吉原遊郭の入口・五十間道の「蔦屋次郎兵衛店」の一角を間借りし、20代前半にして本屋「書肆耕書堂」を営み始めた蔦屋重三郎。
安永2年(1773年)頃、蔦屋重三郎はこの「書肆耕書堂」において、地本問屋・鱗形屋孫兵衛(うろこがたや・まごべえ)が中心となって(独占的に)刊行していた吉原遊廓のガイドブック「吉原細見」を売り始めています(卸と小売)。
ちょうどこの頃に鱗形屋が出版をしていた吉原細見が、第2話のタイトルにもなっている「嗚呼御江戸(ああおえど)」。この「嗚呼御江戸」に福内鬼外の名前で序文を書いたのが、すでに江戸の有名人となっていた平賀源内でした。当初の重三郎は、吉原細見を独占的に出版していた鱗形屋の傘下のような形で卸、小売として事業に参画し始めたようですね。
翌年の安永3年(1774年)には鱗形屋が重版事件によって処罰されたこともあり、蔦屋重三郎自らが調査・情報収集・編集を行った吉原細見「籬の花」を刊行。あわせて卸・小売も行い、重三郎は本格的に出版・販売事業を手掛けていくようになります。
▼江戸時代の風俗や生活を克明に記録した喜田川守貞の類書「守貞漫稿(もりさだまんこう)」には、遊郭・吉原(新吉原)の名物として「吉原細見」を含む以下の七品が挙げられています。
▷「袖の梅」…酔いを醒ます丸薬。どの遊女屋にもあった。
▷「巻せんべい」…仲之町の有名なお菓子屋「竹村伊勢」が売っていた。折り詰めにして進物に使った。
▷「吉原細見」…毎年刊行される吉原遊郭のガイドブック。蔦屋重三郎が出版業を始める手がかりとなった。
▷「かんろばい(甘露梅)」…水道尻(吉原の裏出入り口)にある「山口屋半四郎」で売っていた梅。客たちは新年の贈り物にこの甘露梅を遊女屋に持参したとか。
▷「つるへ(釣瓶・つるべ)そば」…大門を入る手前の五十間道にある、縄のれんをかけた蕎麦屋「増田半次郎」のこと。
▷「最中の月」…最中の皮を使ったお菓子で「松屋忠次郎」の商品。
▷「豆腐、あげや丁」…山屋市右衛門の店の豆腐。
【史実】遊郭のデータを網羅 「細見」とは
▼安永8年(1779年)刊行の「吉原さいけん」(出版者:蔦屋重三郎)の中身。少し見にくいですが、右ページの下、S字カーブの五十間道沿いに「細見板元本屋 つたや重三郎」の文字が見えます。
・『吉原さいけん』蔦屋重三郎_安永8 [1779]. 出典:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2539537
この遊郭のガイドブック「細見」よりも先に、もともと「遊女評判記」という各地の遊郭の評判を記したジャンルの書物が存在しました。吉原の評判記としては万治3年(1660年)刊行の「高屏風くだ物がたり」などが知られます。
こうした評判記は遊女の評価とともに文学的で艶っぽい文章表現が人気だったようで、これが井原西鶴のロングセラーとなった浮世草子「好色一代男」「諸艶大鑑(好色二代男)」の誕生につながっています。評判記や浮世草子などの文学的世界が、遊女や遊郭のことを広く世間に周知させる広告ツールになっていたわけです。
これに対してガイドブック的な性格が強い後発組の「細見」、特に蔦屋重三郎による吉原細見は、より詳細なデータや情報を重視する傾向がありました。
細見は、遊郭内にある妓楼の紹介や詳細地図のほか、各遊女の名前と位(呼び出し、昼三、附廻し、座敷持ち、振袖新造、番頭新造など)、金額、抱え主、茶屋、芸者、商家などの細かなデータが網羅され、これ一冊あれば遊郭で安心して遊べるという充実ぶり(遊女の位と値段はわかりやすくマークで示された)。
入れ替わりの激しい遊郭ゆえに頻繁な情報の更新が必須であり、一年に一回以上は最新刊を刊行する必要があったことなど、細見は現代の情報産業に通じるものがあります。
一昔前の旅行ガイドブック「地球の歩き方」や、最近で言えばグーグルレビュー・マップや食べログのような情報サイトをイメージするといいかも知れませんね。
▼吉原遊廓の細かい情報が網羅された安永8 年(1779年)刊行の「吉原さいけん」。
・『吉原さいけん』蔦屋重三郎_安永8 [1779]. 出典:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2539537
編集者としての才能が開花した蔦重 メディア王の足がかりに
本屋から商いを出発させ、自ら吉原細見の刊行を担うようになっていった蔦屋重三郎ですが、この頃から出版人として突出した才覚を見せていくようになります。
元来吉原育ちで遊郭の情報通だった蔦屋重三郎の細見は他の追従を許さない充実ぶりであり、細見の発行を通して版元(=出版社)「蔦屋」の地位は確固たるものになっていきます。
細見「籬の花」に続き、安永3年(1774年)には蔦屋重三郎が初めて独立出版社として刊行した遊女評判記「一目千本(ひとめせんぼん)」が評判に。
「一目千本」は浮世絵師の北尾重政による絵が美しい一冊で、別名「華すまひ」。吉原が誇る美しい遊女たちを生け花に見立て、相撲の東西取組に見立てて競うという見て楽しい華やかな評判記でした。
この「一目千本」の影響により、花に見立てられた遊女たちは江戸の有名人として広く認識されるようになり、吉原遊廓の人気に拍車がかかったようです。
※これよりも少し前の1760年代には遊女屋で複数の花会が開催され、1770年には高崎藩士で洒落本作家の蓬莱山人が「抛入狂歌園」という見立て絵本を出版。これは鈴木春信や桐屋五兵衛(飴屋)、丁子屋喜左衛門(歯磨き粉屋)、笠森お仙など当時の華々しい江戸の有名人たちを生け花に見立てた本でした。
蔦屋重三郎による「一目千本」は「抛入狂歌園」で見られたような有名人を花に見立てるという文化を、遊女バージョンに昇華、踏襲させたものとされます。
アイディアと商才にあふれ、情報の編集センスに長けていた蔦屋重三郎。
吉原生まれでローカル情報に精通していたという強みから出版業に乗り出し、山東京伝、曲亭馬琴、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽ら天才たちを次々と世に送り出す「江戸のメディア王」へと変貌していきます。
▼安永8 年(1779年)刊行の「吉原さいけん」の巻末には「耕書堂の蔵板目録」として「一目千本」の書名も見られます。他にも「美人合姿鏡」「江戸志まん評判記」「娼妃地理記」など興味深いものがたくさん。
・『吉原さいけん』蔦屋重三郎_安永8 [1779]. 出典:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2539537