【花燃ゆ】吉田松蔭・金子重輔が投獄される「野山嶽」「岩倉嶽」とは?

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NHK大河ドラマ「花燃ゆ」より。

ペリー(ペルリ)の黒船に乗り込み密航を企てた吉田寅次郎(=松蔭=伊勢谷友介)と、寅次郎と行動を供にした金子重輔でしたが、黒船側は二人の密航を拒否。松陰たちは自首し、江戸で牢屋に入れられた後に萩へと送還されています。

この時、長州藩の判断により二人がそれぞれ入れられたのが、「野山嶽」と「岩倉嶽」という牢獄でした。この記事では二つの牢獄についてまとめます。

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目次

喧嘩両成敗!「野山嶽」「岩倉嶽」の由来とは?

「野山嶽」「岩倉嶽」は、長州・萩(現在の山口県萩市今古萩町)にあった獄屋敷です。ここにはもともと200石の藩士「岩倉孫兵衛」の屋敷と、同じく200石の藩士「野山六右衛門」の屋敷が道を挟んで隣り合って建てられていました。

1645年(正保2年)のこと。酔っぱらった岩倉孫兵衛が野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷するという騒ぎが起きます。事の発端となった岩倉孫兵衛は野山家の屋敷に幽閉された後に打ち首となり、更には喧嘩両成敗ということで岩倉、野山両家は取り潰しの上、屋敷を藩に没収されてしまいます。

「野山嶽」「岩倉嶽」その違いとは?

没収された両家の跡地は牢獄に建て替えられます。「野山獄」は士分の者が、「岩倉嶽」は一般庶民が入れられる牢獄として差別化され、その待遇も大きく異なりました(殺傷事件は岩倉孫兵衛側に非があったため、岩倉嶽が下牢となったとされる)。

「岩倉嶽」は衣食も満足に与えられない過酷な環境。一方の「野山嶽」は親族からの差し入れも可能であり、いわゆる「軟禁」のような状態であったようです。

松蔭は「野山嶽」に、重輔は「岩倉嶽」に

これまで松蔭(寅次郎)らの行動を広い心で許してきた長州藩主・毛利敬親でしたが、今回の密航の企てばかりは庇護できないとして、松蔭を「野山嶽」に、身分の低かった金子重輔を「岩倉嶽」に投獄します。

松蔭は道を隔てた「岩倉嶽」に入れられた金子重輔を心配し詩や手紙を届けていました。しかし、入獄から三ヶ月と経たないうちに、重輔は25歳という若さで入獄のまま死んでしまいます。松蔭は重輔の死を深く嘆いたといいます。

「野山嶽」での日々と、新たな出会い

一方の松蔭は「野山嶽」の投獄中において600冊余りの本を読んだ他、投獄された人たちに声をかけ互いに得意な分野を教え合う「勉強会」を開いたり、松陰自身も囚人相手に「孟子」の講義を始めます。この松蔭の講義は評判となり、獄吏(監獄の役人)ですら廊下で耳を傾けたと言われるほど。松蔭はこの講義を通して孟子に対する解釈を自身でもより深め、後に「講孟余話」としてまとめています。

また松蔭は「野山嶽」において、後に松下村塾の助教授となる富永有隣や、松蔭の生涯唯一のラブロマンスの相手とも噂される高須久子などとも出会っており、松蔭が「野山嶽」で過ごした時間(1年2ヶ月)は決して空虚ではなかったようです。

なお、維新直前の元治年間には「野山嶽」に高杉晋作や楫取素彦(小田村伊之助)ら多くの志士も入っています。現存する「野山嶽跡」は、維新へと向かう当時の長州の熱気の残り香を感じることが出来る、貴重な史跡となっています。

★野山獄跡・岩倉獄跡(のやまごくあと・いわくらごくあと)
〒758-0021 山口県萩市今古萩町
※敷地内は一部保存され、「金子重輔絶命の碑」などが残る。

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