荒木村重の妻・だし(桐谷美玲)の悲しい最期 「今楊貴妃」と呼ばれた薄幸の美女

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NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第22話では「有岡城最後の日」が描かれています。

荒木村重が破滅へと突き進んでしまった回の翌週・第23話では、薄幸の美人である荒木村重(田中哲司)の妻・だし(桐谷美玲)の悲しい最期が描かれています。

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目次

荒木村重殿のご乱心

有岡城主・荒木村重は織田信長(江口洋介)に突然反旗を翻し、毛利方に付く決断をします。しかし、村重に謀反を決意させた張本人である家臣の中川清秀(近江谷太朗)や有能な家臣だった高山右近(生田斗真)が織田側に寝返り、村重は一気に窮地に立たされます。

村重は堅牢な守備力を誇る有岡城で篭城を決め込みますが、頼みである毛利の援軍は一向にやってきません。ついに村重はしびれを切らし、毛利に援軍を直談判するために家臣や妻子らを城内に置いたまま有岡城を飛び出してしまいます。

▲大河ドラマでここまで荒木村重にスポットが当てられるのは珍しいのですが、田中哲司が見事に魅力的な人物として演じています。画像は歌川国芳による「荒木村重錦絵図」。(wikipediaより画像転載。)

今楊貴妃と呼ばれた絶世の美女・だし

そんな一連の村重のご乱心を終始たしなめていたのが、妻のだしです。

その美貌は「今楊貴妃」(ようきひ=719年〜756年、中国唐代の皇妃。傾国の美女と呼ばれるほどの美人だった。今楊貴妃=現代の楊貴妃の意味)と呼ばれたほどで、村重にとってだしは「自慢の妻」だったようです。

信長最後の譲歩も拒否し、いよいよ有岡城は…

『城を明け渡せば、おのおのの妻子を助命する』とする信長からの降伏の条件を、尼崎城に居た村重は拒否してしまいます。信長は村重の実力を高く評価しており最大限の譲歩を見せたのですが、村重は「憎き信長に屈したくない」という一心で感情的に突っぱねてしまったのです。

これにより信長は激怒。ほとんど女子供しか残っていなかった有岡城はあっという間に攻め落とされ、信長の命により荒木家の「一族郎党皆殺し」が行なわれます。

だしの最期、辞世の句 助かった幼子は後の絵師「岩佐又兵衛」

史実によれば、まず1579年12月13日に尼崎近くの七松で、村重とともに逃亡した家臣らの女房衆122人が処刑されました。磔(はりつけ)にされ鉄砲や長刀で殺される姿、家屋に押し込められて焼き殺される様は凄惨なものだったようです。

村重の妻・だしの処刑が行われたのはその3日後、12月16日。京都に護送された村重一族と重臣の家族36人が大八車に縛り付けられ洛中を引き回された後、六条河原で斬首されます。

この時、だしはなんとまだ21歳。処刑時のだしは白い経帷子の上に色鮮やかな小袖を着た姿で、毅然とした態度で最期を迎えたと伝えられています。

以下二つの歌は、だしが詠んだとされる辞世の句です。

きゆる身はおしむべきにも無き物を
母のおもひぞさわりとはなる
残しおくそのみどり子の心こそ
おもいやられて悲しかりけり

木末よりあだに散りにし桜花
さかりもなくて嵐こそ吹け
みがくべき心の月の曇らねば
光と共に西へこそ行け

なお、夫の村重はその後毛利に亡命し、尾道に隠遁。後に堺で茶人として復活します。

村重との間に生まれた幼子は乳母の機転により救出され、石山本願寺に保護されました。この幼子は後に「岩佐又兵衛」(いわさまたべえ)という絵師として、江戸時代初期に活躍します。

▼荒木だし関連記事。だしが落城の直前に乳母に託した乳飲み児は、後の絵師・「岩佐又兵衛」という説
荒木村重・だしの息子(有岡城から救出)は後の絵師・岩佐又兵衛

平成の美女・桐谷美玲の演技は?

平成の美女・桐谷美玲が演じる荒木だし。ドラマ登場当初は美貌は目を惹くものの、その演技力には危うさが感じられました。しかし有岡城の状況が追い込まれるとともに、「薄幸さ」の中に凛とした女性像が醸し出され、いい塩梅になってきたように思えます。

桐谷だしは、処刑の直前に「イエズスマリア イエズスマリア イエズスマリア…」と祈りを捧げ、最期にはにっこりと微笑み「殿…」とつぶやき、斬首されました。

この一連の桐谷の演技に対し、ネット上では「美しかった」「いい演技してた」「桐谷美玲のだしはハマリ役」など、好意的な意見が多く見られました。

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