【あさが来た】日の出女子大学校のモデル・広岡浅子が設立に関わった日本女子大学

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NHK連続テレビ小説「あさが来た」のヒロイン・白岡あさ(波瑠)は、嫁いだ大阪「加野屋」で数多の事業に携わるだけではなく、後に日本初の女子大学校「日の出女子大学校」(東京・目白)の創設に関わり、現在まで続く日本の女子高等教育の礎を築くことになります。

このエピソードは、白岡あさのモデルとなっている実在の女性実業家・広岡浅子が日本初の組織的な女子高等教育機関である「日本女子大学校」(現:日本女子大)の創立に深く関わっていたことによるものです。

この記事では、広岡浅子が日本女子大学校設立に関わることになった経緯、貢献をまとめます。

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目次

教育者・成瀬仁蔵と浅子の出会い


▲日本女子大学の創設者、初代校長として知られる成瀬仁蔵。
画像はWikipediaより転載(パブリックドメイン)。

「あさが来た」原案「小説 土佐堀川」によれば、嫁ぎ先の大阪・加島屋で炭鉱経営、銀行設立を成し遂げ、女性実業家として広く名前を知られるようになった頃、広岡浅子のもとに大阪梅花女学校校長で教育者の成瀬仁蔵(ドラマでは成澤泉として登場)から強く面談を求める手紙が届きます。

この成瀬仁蔵こそが、後に日本女子大学校の創立者、初代校長となる人物です。

浅子が面談に応じると、成瀬は女子大学校設立のために賛同して欲しいと請います。浅子は成瀬の考えに共感こそすれ、当初はそれほど乗り気ではありませんでした。しかし、渡された成瀬の著書「女子教育」(女子の人格を認めて育成し、男子と同等の教育を与える等)を読むと、その教育論に深く感銘を覚え、すぐさま賛助を与える決意をします。

浅子は幼い頃から「女子に学問は必要ない」という風潮に疑問を持っていました。また、自身が設立した加島銀行では当時としては極めて異例だった女子行員を採用し、人格形成を含めた社員教育を施すなど、もともと女性教育に対し大きな関心を持っていたのでした。

実業家としての能力を発揮

成瀬仁蔵は崇高な教育理念を持っていたものの、資金面や知略等に関しては無策でした。そこで、豪気な実業家だった浅子ならではのアイディアと豊かな経済感覚が、この未知のプロジェクト実現に向け大きな駆動力となります。

巨額の資金集めを実現させるため、当時の総理大臣・伊藤博文に直接話をつけるように企てるなど、紆余曲折の末に女子大学校設立の夢は実現に向けて大きく動きます。浅子の勧誘もあり、渋沢栄一、板垣退助、山県有朋、嘉納治五郎、岩崎家、三井家、住友家、芝川又右衛門などなど、有力者から多数の賛助を取り付けることにも成功します。

東京・目白台の校地は三井財閥の土地だった

東京・目白台にある現在の日本女子大学の校地の存在が、同校設立に広岡浅子が大きく関わった事実を今に伝えます。

浅子の生家である三井一族は東京にも敷地や別荘を持っており、そのうち、東京目白台の三井の別荘を学校建設地として寄贈することになります。この土地こそが、現在の日本女子大学・目白キャンパス(東京都文京区目白台2)です。

浅子が成瀬に宛てた書簡が公開中

2015年9月現在、大同生命大阪本社2階メモリアルホールで特別展示「大同生命の源流 加島屋と広岡浅子」展(入館無料)が開催中です。この中で、当時浅子が成瀬仁蔵に宛てた直筆の書簡が初公開されています。

詳しくは大同生命が公表している以下のリンクへ。※PDFです。
http://www.daido-life.co.jp/about/news/pdf/2015/150715_news.pdf

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