【軍師官兵衛】豊臣秀次切腹 一族子女も処刑された三条河原「秀次事件」とは

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11月2日(日)放送のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第44話より。豊臣家の行く末を大きく左右する凄惨な「秀次事件」が描かれます。

秀頼が生まれ…関白・秀次の悲哀

豊臣秀吉(竹中直人)と淀(茶々=二階堂ふみ)との間に最初に生まれた男子・捨(鶴松)がわずか三歳で亡くなった事で、秀吉は甥っ子(秀吉実姉・瑞竜院日秀の息子)である秀次(中尾明慶)に関白職を譲り、豊臣家を継がせました。

ところが2年後、淀との間に二人目となる男子・拾(ひろい、後の豊臣秀頼)が生まれると、秀吉は秀次に関白職を譲った事を激しく後悔するようになります。拾の将来にとって、秀次の存在は邪魔者でしかなくなってしまったからです。

秀次に理不尽な切腹命令 

▼豊臣秀次。人殺しが大好きで、残忍な殺人を楽しんだ「殺生関白」とも言われる。ただしこれは秀吉が引き起こした「秀次事件」を正当化するために江戸時代に創作された人物像との説も。実際の秀次は歌や剣術を好み多才で、文化的趣味があった人だとか。※画像はWikipediaより転載(パブリックドメイン)。


第44話では、秀次を何とかして豊臣家の中枢から排除したいとの秀吉の思惑が、とんでもない暴走を引き起こし、豊臣家に悲劇が起こります(秀次事件)。

文禄4年(1595年)7月のこと。秀吉は秀次に謀反の濡れ衣を着せたまま、切腹を命じます。ドラマ「軍師官兵衛」では秀吉は当初、秀次に対し「蟄居(ちっきょ)」の処分のみで済ませようと考えましたが、石田三成(田中圭)と淀(二階堂ふみ)の意向もあり、秀次に切腹を命じたのです。

秀次はこの理不尽な命令により、追放された高野山青厳寺で自害を余儀なくされます。この時、秀次はまだ28歳。秀次の首は秀吉が伏見城で実見した後、京の三条河原で晒されます。

秀次一族の子女も皆殺しに 美女たちが…

事件はこれだけでは終わりません。同年8月には丹波亀山城で幽閉されていた秀次の一族が京都に戻されると、市中引き回しの上、京都三条河原の秀次の晒し首の前で次々に処刑されます。

この時に殺害されたのは、秀次の正室(一の台)、側室、妾、それに秀次の嫡男(仙千代)など計39名。下は1歳の幼子から、10代20代の多数の女性、それに上は68歳まで。多くは全国から集められた容姿端麗な美女だったそうです。

子女たちは刺殺され首をはねられると、次々に掘られた大穴へと投げ入れられました。この塚の上には秀次の首が収められた石櫃が置かれ、「畜生塚」「関白塚」などと呼ばれました。

追記※この時、秀次一族のうち、秀次娘の隆清院(後に真田信繁の側室となる)とその姉は難を逃れています。「真田丸」では隆清院は信繁三番目の妻・たか(岸井ゆき)として登場。

▲今も昔も多くの人々が行き交い、賑わいを見せる三条大橋。しかし、この両岸「三条河原」では悲しい処刑の過去が…(秀次の他にも、石川五右衛門、石田三成、近藤勇がこの地で処刑または晒し首に。)
(画像は歌川広重「東海道五十三次 三条大橋」。Wikipediaより転載、パブリックドメイン。)

この時の不満が関ヶ原の敗因に?

「軍師官兵衛」では、この秀次一族の抹殺事件を振り返り「可哀想な事をした」と秀吉が泣き崩れる場面が描かれます。

秀吉としては可愛い嫡男・拾(秀頼)を思っての行動だったのですが、このショッキングな事件は後々まで豊臣家に遺恨を残す事になります。元から燻っていた豊臣家内部の対立がさらに表面化しただけではなく、ついには天下分け目の関ヶ原の戦いで東軍・徳川の側に多くの大名が流れるキッカケになっていくのです。

暴君としてやりたい放題だった竹中・秀吉にも、ついに終焉の時が近付いて来ているようです。

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