【軍師官兵衛最終回】石田三成の最期 処刑前のエピソードまとめ

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NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」最終回より。絶妙な顔芸で視聴者を楽しませてきた石田三成(田中圭)が、ついに最期の時を迎えます。

「軍師官兵衛」では妙にセコい「スネ夫的」小悪党のような描かれ方がされている三成。しかし、その最期は立派であったとも伝えられています。

関ヶ原で敗れ、自国まで敗走

最終回では関ヶ原の戦い、徳川の天下、豊臣家の滅亡までが一気に描かれます。黒田長政(松坂桃李)の調略もあり、関ヶ原の戦いがわずか一日で決着がつくと(1600年9月15日)、三成は関ヶ原から逃亡します。

三成はそこから自身の領地・近江国まで逃げ、小谷山から高時川を遡り古橋村(現在の滋賀県長浜市木之本町古橋あたり?)まで逃れたところで、東軍の追捕隊に捕らえられています。この時に、かつて三成が米百石を与えて飢饉から救ったという古橋村の農民・与次郎太夫が、命をかけて三成を匿ったという逸話が残っています。

▼三成が関ヶ原から逃げ、辿り着いたと思われる滋賀県長浜市木之本町古橋周辺。関ヶ原からは距離にして30km弱。

石田三成 処刑までの日々のエピソード

その後京都へと護送されることになる三成は、六条河原で処刑される前までにいくつかの逸話を残しています。

「柿は痰の毒」

まず、有名なのが「柿」にまつわるエピソード。

三成は処刑直前に、喉が渇いたとして警護の者に水を所望します。警護の者から「水はないが柿はある。代わりにそれを食せ」と言われた三成は「柿は痰の毒であるのでいらない。」と答えます。

もうすぐ首を斬られるのに毒を断って何の意味がある、と警護の者が笑うと、三成は「大志を持つ者は、最期の瞬間まで命を惜しむものだ」と毅然と言ったとか。

家康の小袖

家康の「小袖」のエピソードも知られます。

処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊に家康が小袖を与えると、他の二人は受け取りましたが、三成だけは受け取らなかったという逸話。

小袖が「江戸の上様(=家康)からだ」と聞かされた三成は「上様といえば(豊臣)秀頼公より他に居ない。いつから家康が上様になったのか」と吐き捨て、最期まで豊臣家に忠義を貫いたとされます。

黒田長政との会話

捕縛された状態での黒田長政ら敵対した武将らとの会話の様子も、逸話として残っています。

ドラマ「軍師官兵衛」でも長政との対面は描かれるようですが、処刑の前に黒田長政と石田三成は「和解」をしています。長政は石田三成に自身の陣羽織をかけると、「ご苦労でござった」(このセリフは諸説あり)と、武士としてねぎらいの言葉をかけています。

ドラマ「軍師官兵衛」では遺恨を水に流そうとする長政に対し、三成は「望みを絶たれたそれがしだが、憐れみは無用でござる。我が思い、如水殿だけはわかってくれよう…。」と伝えます。

裏切った小早川秀秋への言葉

その裏切りにより、西軍の敗北を決定的なものとした小早川秀秋に対しては、「私があなたの二心を知らなかったのは愚かだ。だが約に違い義を棄て、人を欺いて裏切りたるは武将の恥辱、末代まで語り継がれて笑うべし。」と言い放っています。

六条河原で刑の執行 その最期とは

そして、死の直前。京都・六条河原での三成も毅然としていました。刑の執行に際し僧侶の念仏を拒否し、「あの世で太閤殿下(秀吉)にお目にかかれるのが楽しみじゃ!」と笑ったという逸話が伝わります。

石田三成は小西行長、安国寺恵瓊らとともに大坂、堺の市中を引き回され、1600年(慶長5年)10月1日に京都・六条河原にて斬首されています。享年41。その首は三条河原に晒され、後に京都の大徳寺に葬られました。

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▼歴史の中で多くの処刑が行われてきた六条河原(五条大橋から正面通付近)。三成はこの地で、最期に何を想ったのでしょうか。

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