朝ドラ【とと姉ちゃん】平塚らいてうが実際に「暮しの手帖」に書いた(お汁粉)エッセイ

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NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」第19週(2016年8月8日〜)に、真野響子が演じる「平塚らいてう」が登場します。

この記事では、「あなたの暮し」のモデル雑誌である「暮しの手帖」に、平塚らいてうが実際に寄稿したエッセイの内容などについてまとめます。

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鞠子、らいてうの担当編集者に

「とと姉ちゃん」第19週では、自分に自信が持てず水田(伊藤淳史)との結婚に踏み切れないでいた鞠子(相楽樹)が、憧れの平塚らいてうとの出会いを通し、前向きに人生を歩み始める様子が描かれます。

鞠子は、新規の原稿依頼は困難だとされるらいてうと渡り合い、見事に執筆の約束を取り付けることに成功します。その結果生まれたのが、「お汁粉の作り方」という生活に根ざした題材を交えて書かれた、優しい筆致のエッセイでした。

女性を鼓舞するような力強い文章の出来上がりを期待していた鞠子はこの文章に困惑するのですが、そこにはらいてうなりの想いが込められており…。

豪華作家が寄稿した「暮しの手帖」

この一連のエピソードは、「あなたの暮し」のモデル雑誌である「暮しの手帖」に、実際に平塚らいてうが寄稿していたという実話から創作されたものです。

「暮しの手帖」は編集長・花森安治の考えもあり、創刊当初から川端康成、土岐善麿、扇谷正造、佐多稲子といった大物、著名作家らに原稿を依頼し、掲載していました。

さらに第五号では東久邇成子(昭和天皇と香淳皇后の第一皇女。今上天皇の長姉)が、後には高見順、大佛次郎、初代最高裁判所長官・三淵忠彦などが同誌に原稿を寄せており、学者や作家、研究者、芸術関係者など様々なジャンルの人々が、「専門家ではない」独自の視点で暮らしについて語るというスタイルがとられていました。

まだまだ駆け出しだった「暮しの手帖」は、当然ながら知名度も信用度も高くありませんでした。主に作家との交渉、原稿依頼を担当していたのは長女・大橋鎭子と三女・芳子で、彼女たちの粘り強い交渉の努力や、相手の懐に入り込む人間的な魅力もあり、多くの著名人が雑誌の主旨に賛同し、原稿を寄せていったのです。

平塚らいてうエッセイ「陰陽と調和」と「お汁粉」

平塚らいてうも、「暮しの手帖」の誌面を彩った一人でした。花森安治は少年時代に図書館でらいてうの著作を読み耽っていたそうで、らいてうの誌面登場には少なからず花森の意向が反映されているものと思われます。

らいてうの文章が初めて「暮しの手帖」に登場したのは、昭和24年(1949年)1月発売の第2号のこと。「陰陽と調和」と題されたらいてうのエッセイは、らいてうが戦時中の疎開先(茨城県・戸田井。現在の取手市)に、料理研究家の中江百合を迎えた時の様子が描かれていました。

中江百合がはるばる都会からやって来たことを喜んだらいてうは、近所で採れる食材をふんだんに使い、小ウナギの蒲焼き、野草の和え物、胡麻汁粉などの料理に腕をふるい、盛大にもてなしています。

この「陰陽と調和」の中で紹介された「胡麻汁粉」は読者の間でも話題になったようで、らいてうは第4号のエッセイで「胡麻汁粉」の作り方を披露しています。

エッセイ執筆当時、らいてうはすでに60歳を超えていました。「元始、女性は実に太陽であった」に代表される若い頃の力強い文章とは違い、「暮しの手帖」に寄せられた一連の文章は、温かみと生活感に満ちた優しい筆致で書かれていました。

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