10月30日放送のNHK「歴史秘話ヒストリア」は、北海道開拓の父と呼ばれる「クラーク博士」。札幌農学校(現・北海道大学)開校の際に、酪農の教師として来日したアメリカ人です。
クラークはアメリカ・マサチューセッツ州生まれ。エリート大学であるアマースト大学で学び、優秀だったことから26歳で教授に抜擢、化学・植物学・動物学をかけもつ凄腕の教師だったそうです。その後40歳にしてマサチューセッツ農科大学を自ら設立し、酪農の発展、教育に力を注ぎました。
戦争で多くの生徒を失ったクラークの想い
ある日、彼の元へ日本から使者が訪れ、「日本で酪農を教えてほしい」と頼まれます。当時、戊辰戦争の戦乱で若者の命が奪われ国が疲弊していた日本は、北海道開拓にあたる若者を育て、復興の要としたい考えがありました。その教育の場が、札幌農学校だったのです。
農科大学の教授陣はクラークの日本行きに反対しましたが、彼はアメリカ・南北戦争で共に戦った生徒達の多くが銃弾に倒れたことを思い、同様の状況にある日本を助けたいと考え日本行きを決断します。もともと彼が農科大学を設立したのも、南北戦争により国土が荒廃したことを憂いてのことでした。
▲北海道大学に残る「「モデルバーン(模範家畜房)」。クラークにより導入された。
上階から干し草を落とし、それを牛が食べ、牛の糞尿を下に居る豚に与える合理的設計。
Photo By: MIKI Yoshihito
日本での日々
情熱を胸に日本にやってきたクラークでしたが、生徒達のやんちゃぶりに手を焼きます。宿舎で毎晩酒を飲み、トラブルを起こす日々。
彼らの多くは日本各地の元武士の次男三男で、戊辰戦争で旧幕府側に付き賊軍とされた藩の出身者が多く、食い扶持を求めての北海道行きでした。元武士の出の者が農民と同じ仕事をするという事実に、鬱積したものがあったようです。
しかし、クラークの「兄のような」親しみやすさと、教育に対する情熱により、次第に生徒達は見違えるように酪農技術の習得に励むようになり、彼らが後に、北海道酪農の隆盛の礎となりました。
帰国後も生徒達と交流を続けたクラークは、後年、「日本で生徒達と過ごした日々が私の人生において最良の時間だった」と書き残しています。
少し記事が長くなりましたので、ページを分けます。あの名言裏話等、クラークに関するエピソードは次の記事で。羊ヶ丘展望台の「クラーク博士像」で有名なクラーク博士ですが、実は北海道大学のキャンパス内に元祖となる「クラーク像」があったりもします。
【都築の記事】名言 Boys, be ambitious には続きがあった!クラーク博士のエピソード NHK歴史秘話ヒストリアまとめ
関連記事
・歴史秘話ヒストリア主題歌 オープニング・エンディング曲は「Kalafina」(カラフィナ)
・ジョン万次郎がアメリカの子どもたちに人気らしい「HEART of a SAMURAI」は学校教材に 歴史秘話ヒストリア