赤玉ポートワイン広告の衝撃 マッサン「太陽ワイン」のモデル商品 の記事で、寿屋(現在のサントリー)の赤玉ポートワインの広告の話題をとりあげましたが、寿屋~サントリー宣伝部は、それ以降も人々を驚かせる宣伝手法を繰り返し、こんにちのサントリーという企業の土台を作っていきました。
例えば、竹鶴政孝(マッサン)を迎えて社運を賭けて取り組んだウイスキー事業。昭和4年(1929年)、ようやく完成した初の国産本格ウイスキー「白札サントリー」の宣伝のために、寿屋は大々的に新聞広告を打ちます。それが、以下の有名なコピー。
「醒めよ人!舶来盲信の時代は去れり
酔はずや人 吾(われ)に国産 至高の美酒
サントリーウヰスキーはあり!」
洋酒と言えばもっぱら模造品か輸入物であり、国産ウイスキーなど考えられなかった時代。当時の日本人の先入観を取り除き、目を醒ますために考えられたのが「醒めよ人!」のコピーでした。
佐治敬三、開高健、山口瞳、トリスバー…
大正期から昭和にかけて、赤玉ポートワインの広告等、世間を驚かせてきた寿屋の宣伝部。戦後になると、再び寿屋宣伝部が黄金時代を迎えます。後に大作家となる開高健、山口瞳らが所属した宣伝部が大活躍。開高らが手がけた伝説のPR誌「洋酒天国」、「人間らしくやりたいナ」のコピーで有名なウイスキー広告などが大きな話題となります。
また「寿屋の洋酒チェーンバー」として全国展開した「トリスバー」もまた、新聞広告と連動。戦後日本のサラリーマンを支える気軽な飲み場所として、ブームとともに全国に浸透していきます。
戦後の寿屋(昭和38年にサントリーに改称)は、社長に就任した佐治敬三(鳥井信治郎の次男)が「生活文化企業」という独自の理念を掲げ、異色の経営手腕を発揮しました。佐治敬三の元には開高健、山口瞳、それに柳原良平、坂根進、酒井睦雄など現在のサントリーの企業風土を決定付ける才能の持ち主が集まりました。
▼開高健、山口瞳による「裏のサントリー社史」とも言える一冊。当時の寿屋宣伝部の熱気、自由な発想の源を知ることができます。山口瞳入社時に開高健が行なった面接場面など、面白いです。
松田聖子とペンギン、恋は遠い日の花火ではない…
テレビが各家庭に普及すると、サントリーは次々にCMを打ち出し、高度経済成長期の国民的飲料メーカーとして、その地位はますます不動のものになっていきます。
1974年にはミュージシャンのサミー・デイビス・ ジュニアを起用したウイスキーのCMが「カンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバル」フィルム部門グランプリを受賞。これは日本の企業として初めてのことでした。
80年代では松田聖子の曲「スイートメモリーズ」にあわせてペンギンが歌う缶ビールのCMが、記憶に新しいところでは、「恋は遠い日の花火ではない」のコピーとともに中年男性(長塚京三)が淡い恋心を思い出す「新オールド」のCMなどが有名です。
大きな企業でありながら、未だにベンチャー精神に溢れる企業風土が保たれているサントリー。創業者・鳥井信治郎の口癖「やってみなはれ」の精神の元、佐治敬三や開高健といった強烈な個性が創り上げてきた社風が今も生き続ける会社なのです。