2015年秋のNHK連続テレビ小説「あさが来た」ヒロイン・白岡あさのモデルである女性実業家・広岡浅子と、2014年に放送された連続テレビ小説「花子とアン」ヒロインのモデル・村岡花子との接点についてまとめます。
広岡浅子と村岡花子
広岡浅子は1849年(嘉永2年)生まれで、1919年(大正8年)没。村岡花子は1893年(明治26年)生まれで1968年(昭和43年)没。年齢にして44歳ほど違う浅子と花子ですが、花子は浅子の晩年期に出会い、その後の生き方に大きな影響を受けています。
女性教育に力を入れていた浅子
浅子は、加島銀行での女子行員への社員教育、日本女子大学校の設立への貢献などを通し、実業家の立場で当時欧米に比べて大きく遅れをとっていた「女子教育」に尽力していました。嫁ぎ先である加島屋の経営が盤石となり、晩年に経営の一線を退いた後にも、浅子は個人で女子の教育活動に力を注ぎました。
御殿場・二の岡別荘での「夏期講習会」
浅子は1914年(大正3年)から亡くなる前年まで、御殿場・二の岡に所有していた別荘に前途ある若い女性を集め、「夏期勉強会」を毎年開催するようになります。
この会には、井上秀(後の日本女子大学校初の女性校長)、市川房枝(後に女性参政権獲得運動に尽力、参議院議員に)、小橋三四子(女性記者、後に『婦人週報』を創刊)らが参加。後に新しい時代を切り拓くことになる若き女性達に教え、語らう時間を過ごしています。そうした中に、村岡花子も居たのです。
花子が「夏期勉強会」に参加するようになったのは1916年(大正5年)のことで、浅子が亡くなる3年前。当時、山梨英和女学校で教師をしていた花子は、「矯風会」(キリスト教に基き女子教育や婦人運動を推進する団体)の活動により浅子と通じ、勉強会に参加するようになります。
浅子の言葉「小我に固執せず、真我を見つけなさい」
当時の様子はドラマ「花子とアン」の原作「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」(新潮文庫・村岡恵理著)の中でも触れられていますが(「花子とアン」では、この場面や浅子に相当する人物は登場せず)、まだ「何者でもなかった」田舎の一教師・花子はこの勉強会への参加により、はっきりと作家を志すようになっていきます。
花子は、勉強会において浅子から聞かされた「小我に固執せず、真我を見つけなさい」(自分がしたいことだけに固執せず、社会のために為すべきことを見つけなさい)という言葉に深く感銘を受けます。この言葉に出会ったことが、後に英米文学を日本の若者のために翻訳、出版するという生涯の活動に通じていき、名作「赤毛のアン」の誕生にも繋がっていくのです。