NHK連続テレビ小説「マッサン」のヒロイン・亀山エリー(シャーロット・ケイト・フォックス)のモデルとなったスコットランド人女性・竹鶴リタについてまとめます。
スコットランド・グラスゴーの医者の家に生まれる
「リタ」の本名はジェシー・ロバータ・カウン。スコットランド・グラスゴー近郊で、医師の家であるカウン家の長女として生まれます。兄弟は妹のエラ、ルーシー、それに弟のラムゼイがいました。
出会いは柔道が縁 妹を通じて
1918年(大正7年)、大阪の摂津酒造に就職していた竹鶴政孝は、本場スコットランドのウイスキーづくりを学ぶ為にグラスゴー大学に留学します。
そこでグラスゴー大学に在学していたリタの妹・エラと竹鶴が出会ったことが、運命の始まりでした。リタの妹・エラが竹鶴に、弟・ラムゼイに対し柔道を教えるよう依頼したことが、竹鶴とリタの出会いのキッカケとなったのです。
リタは次第に竹鶴と親しくなり、竹鶴のウイスキーづくりの夢に共感していきます。やがて、カウン家の猛反対に遭いながらも二人は現地で結婚。1920年(大正9年)に、リタは竹鶴とともに初めて日本にやってきます。この場面が、ドラマ「マッサン」の冒頭の帰国(来日)場面となるわけです。
リタは竹鶴と結婚後、日本に帰化しています。
リタの日本での生活
リタの日本での日々は、激動そのものでした。大阪、そして北海道へ渡った夫婦は、一から立ち上げたウイスキー事業で失敗の連続。おまけに太平洋戦争勃発によってリタは「敵国人」扱いされ、スパイ容疑をかけられてしまいます。
そんな苦難の中で、明るく前向きなリタの人柄は政孝と周囲の人々を照らします。
当初は日本の言葉や文化に戸惑っていたリタも、ががて懸命に習得した流暢な関西弁を操り、漬け物や塩辛を作るまでになり、日本文化に溶け込んでいきます。
そんなリタを周囲の人は「日本人以上に日本人らしい」と評しました。リタは、誰よりも「日本人になる」ことを意識し、必死に日本に溶け込みむ努力を続けたのです。リタの奮闘、内助の功もあり、竹鶴は北海道の地で「ニッカウヰスキー」という日本を代表するウイスキーメーカーを創りあげることに成功します。
マッサンとリタの子供は?
政孝とリタの間に子供は出来ませんでした。リタは大阪在住時代に流産を経験しており、口では言わないもののリタも心の中では子供が欲しいと考えていたようです。
そのような経緯もあり、政孝とリタは二人の養子(養女)を迎えています。一人は房子(後にリマと名乗る)という女の子、もう一人は政孝の甥っ子にあたる威(たけし)という男性です。
ドラマでは竹鶴リマは「亀山エマ」(優希美青)として登場します。また、ニッカウヰスキーの後継者となる竹鶴威は、広島の姉・岡崎千加子(西田尚美)が息子を養子として北海道に送り込むという形で登場するようです。
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故郷を捨ててマッサンと一緒に
リタは、初来日4年後の1924年、それに1931年に、政孝とともに視察名義で故郷・スコットランドに帰郷しています。
周囲から結婚に大反対され、多くの親族と決別して来日したリタ。唯一結婚に賛成してくれた妹・ルーシー(後年、来日してリタと再会している)、それに後年和解した母とは文通を続けていましたが、その他のスコットランドの兄弟・親戚とは疎遠になったままでした。
結局、リタは1961年(昭和36年)に日本で亡くなります(64歳で没)。故郷との細い繋がりをかろうじて守りながら、文字通り「故郷を捨てて」竹鶴との結婚という大決断を貫いた人生だったのです。
▼リタ・マッサンの晩年、死因等をまとめています。
・竹鶴リタ(エリーのモデル)、マッサンの死因は?マッサンはその後何歳まで生きた
・マッサンのその後〜妻の死後、竹鶴政孝の辿った人生とは
竹鶴とリタの夢の結晶 余市蒸溜所
リタが支え続けた竹鶴の夢の結晶、余市蒸溜所は現在も稼働し続け、その傍らには、かつて竹鶴とリタが過ごした家(旧竹鶴邸)が移築されています(蒸溜所は工場見学可能、旧竹鶴邸は玄関ホールと庭園を一般公開)。
和洋折衷の可愛らしい旧竹鶴邸の前には、リタが手入れしていたという美しい庭園が再現され、二人の結婚生活の面影を感じることが出来ます。なお、夫の竹鶴政孝はリタが亡くなった18年後(1979年)に、この世を去っています。
※余市蒸溜所は札幌から一時間余りと近いため、札幌観光の旅程に余市蒸溜所の見学も検討してみてはいかがでしょうか。
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