【とと姉ちゃん】大橋鎭子の生い立ち、経歴 女学校、就職、創業まで

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NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」ヒロインのモデル人物である「暮しの手帖」創業者・大橋鎭子の生い立ち、経歴などをまとめます。

ドラマヒロイン・小橋常子とはその生い立ち、経歴などで大小さまざまな相違点があります。

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目次

東京生まれ、1歳で北海道へ

大橋鎭子は大正9年(1920年)、東京生まれ。父・大橋武雄の実家は東京・深川の材木商を営んでおり(養子)、武雄自身は「日本製麻株式会社」で働く勤め人でした。

大正10年、鎭子1歳の時に父が工場長として北海道に赴任することになり、母・久子とともに一家で北海道に渡っています。この北海道の地で、一つ違いの妹・晴子、三つ違いの妹・芳子が生まれています。

父の肺病で帰郷、小5で父死去

大正15年になると、父の肺病が悪化。肺結核と診断され、鎌倉の病院に入院するため一家は東京へと帰って来ています(結局北海道在住は5年間ほど)。一家は東京牛込、鎌倉、東京大井町などに居住。

昭和5年、父・武雄は東京・新大久保近くの病院で肺結核のため死去しています。この時、鎭子は小学5年生でした。

第六高女〜日本興銀〜日本女子大

昭和7年、鎭子は東京府立第六高等女学校(現在の都立三田高校)に合格。母方の祖父・宮原満吉の学費援助もあり、第六高女を無事卒業しています。

同級生が女子高等師範学校や家政学院などに進学する中、鎭子は家計を助けるために昭和12年、「日本興業銀行」に就職(父の従兄弟による紹介)。「調査課」に配属され、調査月報の編集などを手掛けています。

3年ほど興銀で勤めた後、鎭子は「もっと勉強がしたい」と考え、日本女子大学・家政科二類に入学。しかし体調を崩し(父と同じ肺病を疑われた)、結局半年ほどで女子大学生活を断念しています。

日本読書新聞入社、終戦

体調も戻った翌昭和16年春、「日本読書新聞」の求人広告を知り応募。前職経験などから即日採用され、働き始めます。

「日本読書新聞」に就職後しばらくすると、「日本出版文化協会」に出向。この頃から戦争が激しくなっていきます。「日本出版文化協会」は内閣情報局のもと、出版物の統制、検閲を強化する役割があり、「日本読書新聞」は「日本出版文化協会」の機関誌という立場でした。再び「日本読書新聞」に戻ると、鎭子は同社で終戦を迎えています。

花森安治との出会い、「暮しの手帖」創刊

終戦後、鎭子は勤め人では収入が少なく一家を支えていけないと考え、出版業での独立開業を模索します。

昭和20年10月、鎭子は「日本読書新聞」に出入りしていた花森安治(顔見知り程度だった)に相談を持ちかけ、その日のうちに花森は鎭子を手伝うことを約束しています(鎭子、25歳)。

翌昭和21年、妹らの協力もあり、銀座に出版社「衣裳研究所(のちの「暮しの手帖社」)」を創業。同年5月に花森主導による最初の出版物「スタイルブック 1946夏」を創刊、見事ヒットさせています。

その後「スタイルブック」は競合誌が林立しジリ貧となりますが、昭和23年9月には「暮しの手帖」の創刊号となる「美しい暮しの手帖」を発売。「暮しの手帖」は昭和31年に菊池寛賞を受賞するなど、高い評価を受ける雑誌に成長していきます。

以降、2013年に93歳で亡くなるまで、鎭子はその生涯を出版業に捧げ、日本の出版界に確かな足跡を残していくことになります。

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