NHK連続テレビ小説「わろてんか」第20週(2018年2月12日~)より。
北村笑店の看板芸人として不動の人気を得ていた「キース・アサリ」でしたが、この週の放送で突然コンビを解散することになります。
この記事ではキース・アサリが解散する経緯と、モデルとなった伝説の漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」の電撃解散劇の経緯、理由などをまとめます。
キース・アサリの解散
北村笑店は開業から25周年を迎え、経営陣は新たな経営展開を考えていました。これに対して風太が提案したのが、大阪で根付いたしゃべくり漫才を、レビューなどのエンタメに押され気味の東京でも盛り上げたいというものでした。
こうした流れの中で風太は、キース・アサリコンビの解消(コンビ別れ)を主張します。風太は、キースを東京に送り込んだ上でアサリを大阪に残し、それぞれに新しい相方を組ませて二組のコンビを生み出すことで、東京、大阪両地に漫才文化が末長く花開くことを目論んでいたのです。
エンタツ・アチャコは絶頂期に解散
▼ヒゲとロイド眼鏡がトレードマークだった横山エンタツ(右。キースのモデル)と、朴訥な風貌が愛された花菱アチャコ(左。アサリのモデル)。画像はwikipediaから転載(パブリックドメイン)。
キース・アサリのモデルコンビであるエンタツ・アチャコ(横山エンタツ・花菱アチャコ)は、昭和5年(1930年)にコンビを結成すると、新しいしゃべくり漫才のスタイルを確立。一躍時代の寵児となっています。
ところが、人気が絶頂だった昭和9年(1934年)、エンタツ・アチャコは突然コンビを解消してしまいます。この電撃解散劇は、アチャコにとってはまさに「寝耳に水」だったとされます。
アチャコの中耳炎、入院 エンタツの衝撃行動
同年、東京・新橋演舞場での漫才公演を大成功させたエンタツ・アチャコ。東京での漫才文化の定着にも大きな意義があったこの公演期間中、アチャコは中耳炎を患っていたのですが、舞台に穴を空けないためにアチャコは病気を押して舞台に上がり続けました。
当時の中耳炎は死亡することも多い重大な病気。帰阪後も舞台に立ったアチャコでしたが、ついには倒れ、そのまま長期の入院を余儀なくされてしまいます。
アチャコとしては、しっかりと病気を治してすぐに舞台に復帰したいという気持ちを持っていましたが、相方のエンタツの気持ちは少し違っていたようです。
エンタツは、アチャコが入院している一ヶ月の間にアチャコとのコンビをこっそりと解消。「杉浦エノスケ」という人物と新たにコンビを組んでしまったのです。
吉本、林正之助が主導?解散の理由とは
この解散劇の裏には、風太のモデル人物である吉本興業の林正之助(吉本せいの実弟)が一枚噛んでいたという説があります(エンタツにコンビ間のギャラの不公平を吹き込み、解散を仕向けた?)。
もともと「ボケ」としての能力があったアチャコ(エンタツとのコンビではツッコミに回っていた)と、エンタツ・アチャコの「ボケ」役として天下をとったエンタツを、それぞれ二つのコンビに分けることで互いを競わせ、その相乗効果により収益も倍増するといった吉本側の皮算用があったのではないかと囁かれているのです。
花菱アチャコの後年の著書「遊芸稼人」では、この解散劇について言及がなされています。
エンタツ氏が私の病気を再起不能と見てとった性来の勘定高さからか、せっかく全国的になった人気をしぼませてはならないとしてやったことか。または人気のあるエンタツ・アチャコを二つにすれば、お互いに競い合ってますますよくなるし、稼ぎも倍になると踏んだ吉本興業の考えによったことか、それはわからない。どれと言えない反面、そのいずれでもあったのだろう。
~花菱アチャコ「遊芸稼人」より引用~
アチャコとエンタツのその後
突然のコンビ解散という裏切り行為に目の前が真っ暗になったアチャコでしたが、戦後には吉本に残り映画やテレビに多数出演したほか、「吉本バラエティ(現在の吉本新喜劇)」の創成にも大きく貢献するなど、人気芸人、俳優としてさらなる飛躍を遂げることになります。
一方のエンタツは、昭和16年(1941年)に「爆笑エンタツ劇団」を立ち上げ、戦後にラジオ番組に長年レギュラー出演(ヒット映画出演なども)するなどの活躍をしていますが、アチャコの目覚ましい成功に比べるとその活躍にはやや見劣りが見られ、自身の才能に対して弱音を吐くこともあったとか。(※とはいえ、エンタツの次男で芸人の花紀京は吉本新喜劇の黄金期を支えた巨星であり、エンタツの弟子には横山ノック、孫弟子には横山やすしが存在するなど、後の大阪のお笑いにも影響を与えています)
エンタツ・アチャコのコンビ時代にはエンタツが才能を見せて主導権を握っていましたから、後のアチャコの活躍は、エンタツにとっても思うところがあったことでしょう。
なお、二人はコンビ解散後に絶縁をしたわけではなく、映画では度重なる共演を行い、戦後の漫才番組では臨時でコンビを復活させるなどしており、その名コンビぶりはしばしば披露されています。
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