NHK連続テレビ小説「わろてんか」のヒロイン・藤岡てんのモデル人物である、吉本興業創業者・吉本せい。
この記事では、大阪の町の「笑い」を大きく変えた吉本せいの人生、略歴をまとめています。3本目となるこの記事では、吉本興行部が経営を軌道に乗せていく過程、そして夫との突然の別れまでをまとめます。
吉本興行部設立 寄席の多店舗経営へ
明治45年(1912年)に「第二文藝館」を買収してスタートした吉本夫妻の寄席経営。木戸銭(入場料金)を格安に設定し、色物などわかりやすい芸人を多く登用した吉本の寄席は人気となっていきます。翌大正2年(1913年)には「吉本興行部」が設立され、いよいよ夫婦の事業は本格的なものになっていきます。
面白ければ何でもござれの「浪速反対派」を立ち上げた興行主・岡田政太郎と組んでいた夫・吉本泰三(吉兵衛)は、岡田と相談の上、大正3年(1914年)に大阪・福島の「龍寅館」をはじめ四軒の寄席の買収を決定。この頃から多店舗経営へと乗り出していきます。
また、翌大正4年(1915年)にはすでに衰退していた「桂派」の拠点・法善寺裏の「金澤亭」を買収。この寄席を「南地花月」と名付け、上方落語の聖地だった法善寺裏に殴り込みをかけていきます。(※これ以降、吉本の寄席には「花月」の名が付けられるようになる。)
子供を生みながら働いたせい
吉本せいはといえば、第二文藝館の買収以来精力的に働き続けるとともに、次々と子供を生んでいました。
せいは身重でありながら借金返済の交渉、寄席買収資金の工面などを行い大車輪の活躍を見せていたわけですが、同時に、生まれたばかりの次女・千代子、四女・吉子、長男・泰之助を相次いで失い、悲しい想いも経験しています。
▼吉本せいをモデルとした女興行師・多加の人生を描いた、山崎豊子の直木賞受賞小説「花のれん」。史実から設定が変更されている部分もありますが、当時の大阪の雰囲気、演芸界の空気感をつかみたければこの一冊がおススメ。
実弟・正之助も縁故採用
大正6年(1917年)頃には、当時19歳だったせいの実弟・林正之助が「総監督」という肩書きで吉本興行部に招かれています。
これまで何かと「女だから」という理由でナメられる経験があったせいでしたが、正之助がせいに代わり厄介な交渉ごとに出向き、怠惰な芸人を怒鳴りつける役割を担当するようになり、吉本興行部は組織としての強みを増していきます。
正之助は後に「漫才」を発掘し、せい死去後の戦後には「吉本興業」をこんにちの姿に発展させる名物社長になっていきます。
順風満帆の事業 上方落語界を「統一」
せいは、大正9年に五女・幸子、大正11年に六女・邦子を出産。大正12年(1923年)には吉本興行部の後継者として期待されることになる次男・穎右(えいすけ)を出産しています。
また、吉本興行部は大正11年(1922年)に「桂派」と上方落語の覇権を争った「三友派」の拠点、法善寺裏の紅梅亭を買収し、三友派を吸収。前年には岡田氏の「反対派」陣営も吸収しており、吉本興行部(花月派)は上方落語界を「統一」していくことになります。
この頃になると吉本興行部は大阪、神戸、京都、東京、名古屋など全国で28館の寄席を経営するまでに多店舗経営を進めています。
夫・泰三(吉兵衛)の突然の死
事業も軌道に乗り、将来の後継者(吉本穎右)も生まれ、順風満帆に思えたせいの人生。しかし、大きな落とし穴がせいを待ち構えていました。
大正13年(1924年)2月、夫・泰三が脳溢血(あるいは心臓麻痺とも)により37歳の若さで急死してしまうのです。
泰三の死が公表されると、大阪の人々の間で「泰三は愛人宅で急死した」「腹上死した」などといったウワサが流れますが、果たしてそれが事実なのかどうか、はっきりとしたことはわかっていません。
泰三という大切なパートナーを突然失ったせいでしたが、この頃の吉本興行部には泰三が残した莫大な借金が存在し、夫の死を悲しんでいる余裕はありませんでした。
この頃から実質的な経営を任されるようになっていた実弟・正之助、それに後に吉本に招かれる同じく実弟の弘高(林家四男)らの力を受けて、せいは吉本興行部をさらに前へと進ませていかなければならなかったのです。
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