朝ドラ「わろてんか」ヒロイン・てんのモデル人物 吉本せいの人生 ②箸吉廃業から寄席経営を手がけるまで

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NHK連続テレビ小説「わろてんか」のヒロイン・藤岡てんのモデル人物である、吉本興業創業者・吉本せい。

この記事では、大阪の町の「笑い」を大きく変えた吉本せいの人生、略歴をまとめていきます。2本目となるこの記事では、結婚後にせいと泰三が起業(寄席経営を開始)していく様子をまとめます。

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目次

暗雲立ちこめる結婚生活

明治40年(1907年)、18歳で大阪・上町本町橋の荒物問屋「箸吉」に嫁いだ吉本せいでしたが、結婚生活は決して順風満帆というわけではありませんでした。

補足:実際に泰三とせいが婚姻届を届けたのは、子供ができた明治43年(1910年)ともされる。

箸吉の後継者である夫・吉本泰三(吉兵衛)は人当たりも良く温厚な性格だったようですが、家族(実父、継母)との折り合いは悪く、そこから逃げるように芝居や落語、剣舞の世界に入り浸っており、さっぱり家に帰ってきません。せいはといえば、姑・ユキから「嫁いびり」の洗礼を受けるなど、苦しい日々を過ごしています。

※NHK大阪の朝ドラ定番の「イケズ」。「わろてんか」では、ヒロイン・てんの嫁ぎ先「北村屋」の御寮人さんで姑の北村啄子(鈴木京香)がてんの前に立ちふさがり、何かと厳しく接していくことになります。

箸吉の廃業 ダメ亭主?ぶり炸裂

明治末期、恐慌のあおりを受けた箸吉は経営状態が悪化。店の経営状態が厳しくなってくると、泰三はますます家に寄り付かなくなっていきます。

やがて道路拡張の際に店が立ち退きを迫られたこともあり、箸吉はあっさりと廃業を決断してしまいます。泰三はといえば、廃業後の後処理をせいに任せっきりにして、自分はチャンバラ芝居の旅巡業に出る始末。明治43年にはせいは長女・喜代子を出産していたわけですが、この時期の泰三は「ダメ亭主」ぶりをいかんなく発揮しています。

箸吉の商いを守るために吉本家へと嫁いで来たはずのせいでしたが、その当ては外れ、箸吉の廃業、姑との不和、そして帰らない夫と、うまくいかないことだらけ。せいは吉本家が大坂城近くに移転したのを契機にして一旦実家の林家に戻り、泰三の帰りを待つ日々を過ごしています。

寄席「第二文藝館」買収の転機

夫婦に転機が訪れたのは、廃業からしばらくが過ぎた明治45年(1912年)のこと。

泰三の持ちかけ(知り合いにそそのかされた?)により、天満八軒の寄席の一つ「第二文藝館」を買収し、夫婦で寄席経営を始めることになります。

せいとしては、本当に好きなことならば泰三も商いに身を入れてくれるはずとの希望もあったのでしょう。腹を決めて泰三の商いを支え始めることになるのですが、おぼっちゃま育ちの泰三が寄席の買収資金を工面出来るはずもなく、せいは実家を頼るなどして、なんとか費用を捻出しています。

泰三が青写真を描き、せいが交渉を行なう

買収した「第二文藝館」の木戸銭(入場料金)は、格安の5銭に設定されました。泰三の考えもあり堅苦しい落語ではなく色物を中心にした「何でもござれ」の番組構成とした「第二文藝館」は、薄利ながらも人気の寄席となっていきます。

この時期のせいは、客が残していったミカンの皮を集めて薬問屋に売却したり、ディスプレイに趣向を凝らした「冷し飴」を寄席の傍らで売り出して一儲けするなど、持ち前の「始末」と「商才」を発揮。

泰三が出演者や番組構成など寄席の青写真を描き、せいが運転資金の工面や交渉ごと、寄席の実務管理を担当するという、役割分担が自然と出来上がっていきます。

伝説の女興行師として名を残し、大阪の「笑い」を変えていくことになる吉本せいですが、そのスタートは「芸好き」の夫のもとへ嫁ぐという偶然から始まったものでした。

※「わろてんか」の北村藤吉・てん夫妻も、夫が芸に精通した道楽者、妻が始末を叩き込まれた商人という設定は史実通り。苦しい寄席経営の中で、夫婦のもとには異色で斬新な芸人たちが集まっていくようになります。

三本目となる次の記事【わろてんか】ヒロイン・てんのモデル人物 吉本せいの人生 ③事業拡大、夫・泰三(吉兵衛)の死 では、夫婦で興した「吉本興行部」の躍進、せいの実弟の入社、突然の夫との死別などをまとめます。

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