この記事では、NHK連続テレビ小説「わろてんか」で松坂桃李が演じる北村藤吉(松坂桃李)のモデル人物である吉本泰三(吉兵衛)についてまとめていきます。
妻・てんを誰よりも大切に想うロマンティストな藤吉ですが、モデルとなっている吉本泰三の人物評は、藤吉のそれとは少し違うようです。
大阪人が憧れる?「ダメ亭主」吉本泰三
吉本泰三(吉兵衛 ※1)といえば、妻・吉本せいとともに吉本興行部(現在の吉本興業)を興した人物として知られますが、大阪の人々の間では「ダメ亭主」として語られることもしばしばです。
明治40年(1907年)。商売をしていた親同士の取り決めにより(※諸説有り)、天満の米穀商の娘・林せいを嫁に迎えた吉本泰三でしたが、跡を継ぐべき家業の荒物問屋「箸吉」の商いにはまったく身が入りません。泰三は芝居や落語の道楽に没頭しており、家にさっぱり寄り付かずにいたのです(※2)。
(※1:吉兵衛の名は、吉本家代々の当主が名乗っていたもの。 泰三は後に名乗るようになった通称。 ※2:もともとの泰三は働き者の真面目な男だったが、継母である吉本ユキや実父との不仲により家に居づらくなり、そこから逃げるようにして芸道楽にのめり込んでいったとの説もあります。)
やがて不況の煽りを受けて箸吉の経営が悪化すると、借金取りの相手など面倒なことはすべて妻・せいに任せっきりにして、泰三は(ハマっていた剣舞の旅巡業に出ずっぱりになるなど)さらに家から遠ざかるようになります。
結局、箸吉は道路拡張の際に立ち退きを迫られたこともあり、あっさりと廃業を選択。箸吉の商いを守るため嫁にやってきたはずのせいは、とんだ肩すかしを食らう形となります。
▼吉本せいの人生とともに、当時の大阪のお笑い事情、街の様子が読みやすくまとめられている良書。
「第二文藝館」買収 夫婦で寄席経営の世界へ
泰三・せい夫妻の人生が大きく動き始めるのは、明治45年(1912年)のことでした。相変わらず「プータロー」同然だった泰三が、突然天満八軒の寄席の一つ「第二文藝館」の買収話をせいのもとへと持ってくると、せいも「夫の好きなことならば」とこれを承諾。夫婦は寄席経営の世界へと足を踏み入れます。
以降、泰三が寄席の方向性や全体像を描き、せいが実務、商いごとを推し進めるという夫婦の役割分担を武器にして、吉本の寄席(1913年に「吉本興行部」を設立)は大阪で大躍進を遂げていくことになります。
やり手の妻に支えられ遊び回る「ダメ亭主」の典型として、何かと面白おかしく語られがちな吉本泰三。しかし、夜な夜な芸人や役者たちを連れ回して積み重ねた芸ごとへの知見は深く、「浪速反対派」の岡田政太郎と組んで実現させた「安くて小難しくなく、とにかく笑える」吉本の寄席の誕生は、泰三の能力なくしてはなかったことでしょう。
泰三の死 残されたせい
次々と大阪各地の寄席を買収してチェーン展開を手がけ、大阪に吉本ありと言われるまでに急成長した吉本興行部。
しかしながら泰三は、吉本興行部の後継者として期待されることになる次男・吉本穎右が誕生してすぐの大正13年(1924年)、37歳の若さで急死してしまいます。結婚から17年ほどで迎えた、突然の夫婦の別れでした。
泰三の死因は急性心筋梗塞とも脳溢血ともされますが、この話には尾ひれが付き、「吉本泰三は愛人宅で死んだ」「妾宅で腹上死した」といったウワサが当時の大阪の街に広まっています。
泰三の死の真相は闇の中ですが、泰三が吉本黎明期の基礎をつくったこと、人当たりが良く温厚な性格で、広く興行界の人々と交流を深めたのは間違いのないところ。奔放ながら事業の舵取りをこなしていたパートナー・泰三を失ったせいは、以降、実弟・林正之助の力を借りて、自らの才覚で吉本を運営していかなければならなくなるのです。
「わろてんか」でも、夫・藤吉との死別が予想され、物語上でも重要なシーンとなっていきそうです。
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