NHK連続テレビ小説「わろてんか」第12週より。
この週の冒頭時点で、北村笑店が所有する寄席は全部で三軒となっているのですが、この三軒の寄席の場所、取得経緯、取得時期などをまとめてみます。
一軒目・天満風鳥亭
藤吉とてんにとって記念すべき一軒目の寄席が、大阪天満宮のすぐ横にある天満風鳥亭(旧・鶴亀亭)です。
天満風鳥亭を開業させたのは、明治44年のこと。妻を亡くした席主の亀井(内場勝則)からこの小屋を譲り受けた藤吉たちは、この地で失敗を繰り返しながら寄席興行のイロハを学んでいきます。
天満風鳥亭のモデルは、吉本興業最初の寄席である「第二文藝館」。第二文藝館があった大阪天満宮・裏門付近には現在、大阪で唯一の定席「天満天神繁昌亭」(2006年開館)があります。
天満地域といえば大阪城の北西(川を挟んで1kmほどの距離)に位置し、かつて「天満青物市場」があった商いの盛んな地域。てんのモデル人物・吉本せいはこの一帯で育ち、天神橋筋商店街の賑わいを間近に感じながら商人としての才覚を磨いています。
・【わろてんか】寄席買い取り額「500円」現在の貨幣価値でいくら?当時の物価まとめ
二軒目・玉造風鳥亭
第9週放送で取得の経緯が描かれた二軒目の寄席・玉造風鳥亭。取得したのは長男・隼也が生まれて間もない大正4年頃で、夫婦が寄席経営を始めてから4年ほどの月日が経っていました。
この寄席を手に入れる際、藤吉は忙しさのあまり家族を顧みず、芸人たちへの給金を寄席取得の手付金として払ってしまうなど暴走気味となり、てんと険悪な雰囲気になっています。しかし、所有する寄席が二軒になったことで北村笑店の経営は少しずつ安定していったようです。
玉造地区といえば、大阪城のすぐ南側に位置する一帯。かつて「大坂の陣」で大坂城の出城として出現した真田丸もこの周辺にあったとされます。天満風鳥亭から玉造までの距離は3kmほどであり、掛け持ち出演をする芸人の移動は大変そう。
モデルの吉本興業(当時は吉本興行部)は前述の「第二文藝館」を明治45年に取得した後、大正3年に大阪・福島の龍虎館、天神橋筋の都座、梅田の松井席、松島の薦辺館を次々に買収し、この頃から多店舗経営を展開していきます。
三軒目・松島風鳥亭
第12週放送冒頭の時点(大正5年〜6年?)で、三軒目の寄席として北村笑店の経営傘下に新たに入ったのが、松島風鳥亭です。この時期になると風鳥亭の高座にはカリスマ落語家・月の井団吾が出演するようになり、経営も上り調子になっていきます。
大阪・松島地区と言えば、大阪の中心地・ミナミから西に少し外れた地区で、現在でも松島新地(当時は松島遊郭)の存在が知られる地。明治期には大阪市電が付近に通されるなど交通の便もよく、商店街が発達した賑やかな場所でした。現在プロ野球、オリックス・バファローズの本拠となっている「京セラドーム大阪」は、松島からほど近い場所にあります。
松島地区は、天満から直線距離で4.5kmほどで、玉造以上に天満風鳥亭からの移動は大変そう。
天満、玉造、松島…いずれ聖地・法善寺裏も制覇…?
北村笑店がこれまで(第12週冒頭現在)に手に入れた寄席は、天満、玉造、松島と、いずれも当時の上方落語の中心地だった法善寺裏(ミナミ)からは少し外れた場所にあります。
吉本興業は大正4年に桂派(ドラマの「伝統派」のモデル)の本拠である法善寺裏・「金澤亭」を買取りこれを「南地花月」とし、大正11年には同じく法善寺裏の三友派の本拠「紅梅亭」も買収。上方落語の拠点だった法善寺裏は、吉本興業によって「統一」されています。
「わろてんか」でも今後、北村笑店は「伝統派」「オチャラケ派」を吸収していき、急速に多店舗経営を加速していくことが予想されます。