【あさが来た】大久保利通暗殺の朝 五代友厚と本当に会っていた?

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NHK連続テレビ小説「あさが来た」12月24日(木)放送分より。直前まで五代友厚(ディーン・フジオカ)と未来を熱く語らっていた内務卿・大久保利通(柏原収史)でしたが、翌朝に暗殺されてしまいます。

この記事では、ドラマで登場した五代との最後の「語らいのシーン」が史実通りなのか?についてまとめます。

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目次

五代と大久保の「最後の夜」

まずはドラマのシーンから。明治11年(1878年)のある夜、五代はイギリスで買って来た「とっておき」のウイスキーを大久保と飲み交わし、今後の日本について熱く語らいます。

これまで外国や藩閥等の干渉により思うように行動できなかった大久保でしたが、「おいはこれから変わるど!」「これからは大いにやってやるぞ!」と意気込み、大久保が考えている日本国家の「30年計画」を五代に語ります。

▲おヒゲが麗しい大久保利通。大河ドラマよりも攻めた描写をしている!など「あさが来た」での大久保のシーンはおおむね好評。
画像はWikipediaより転載(パブリックドメイン)。

大久保が語った “30年計画”

「明治が始まって10年。おいは、つねづね新しい時代が出来上がるにはあと20年かかると思ってる」

「今までの10年は、ことを起こし落ち着かせるまでの始まりの時期。そしてこの先10年は、政治を整え、民の産業を活発にする建設の時期。」

「そしてその先の10年で、ようやく新しい日本が出来上がる。外国に負けない強い国じゃ!」

大久保は強く平和な日本の実現のために「あと10年は気張ろう」と五代に誓います。

結局二人は朝まで飲み明かすことになるのですが、明くる日、まだ酒が抜けきらない五代のもとに「大久保利通暗殺」という衝撃の知らせが届くことになります。

史実では、朝に福島県令に会っていた

Wikipediaに記載されている情報によれば、史実の大久保利通は暗殺された1878年5月14日の早朝、福島県令・山吉盛典から帰県の挨拶を受け、そのまま2時間ほど話し込んでいます。山吉が辞去しようとした際、大久保は将来の展望を以下のように語ったとされます。

「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ」
(Wikipediaより引用)

その後、大久保は明治天皇に謁見するために馬車で赤坂仮皇居へ向かい、午前8時半頃に道中の紀尾井坂付近で不平士族から襲撃され、命を落としています(紀尾井坂の変)。

このあたり、ドラマでの流れとは違いますね。1878年5月当時、五代は大阪株式取引所の設立に奔走しており、東京には居なかったのではないかと推測されます。ドラマで五代に語った「30年計画」は、山吉との会話を五代とのシーンとして再構成したものといえそうです。

五代と大久保の友情は実在

ただし、明治8年(1875年)の「大阪会議」実現の際には五代が大久保のブレーンとなった説や、その際に大久保が五代の屋敷に2ヶ月間滞在していたらしいこと、二人は囲碁仲間だったことなど、二人の友情、交流を物語るエピソードは多く、同じ薩摩出身の盟友として二人の友情は確かにあったようです。

五代と大久保の繋がりについては、以下の産經新聞の記事に詳しく書かれています。この文章を寄稿した志學館大教授・原口泉氏は「あさが来た」で時代考証を担当している方です。
http://www.sankei.com/region/news/150612/rgn1506120025-n1.html

▼原口泉氏はこんな本も出版されています。

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