「華族」「伯爵」とは?「花子とアン」葉山家を例に地位・身分解説

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NHK連続テレビ小説「花子とアン」に登場する嘉納(旧姓・葉山)蓮子(仲間由紀恵)。彼女は「華族」「伯爵家」の出である、としきりに言われています。

われわれ現代の庶民にとって「華族」「伯爵家」というのは何となくおエラい家なのだろうと想像はつきますが、では具体的にこれらの家系はどういった経緯で「華族」「伯爵家」とされていたのでしょうか。簡単にですが、まとめてみました。

▲「伯爵家」という鎖を解き放とうと、もがき苦しんだ柳原燁子(白蓮)。
(画像はwikipediaより転載)

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明治維新後に生まれた新しい身分「華族」

「華族」は明治2年(1869年)に生まれた身分で、明治17年(1884年)に「華族令」によって制度化されています。昭和22年(1947年)に廃止されています。

奈良や平安の時代から天皇家を守ってきた「公家」、それに戦国時代に各地を統治してきた「大名家」(諸侯)などは明治維新、廃藩置県などにより従来の特権が大幅に奪われることになりました。

しかしまだ権力が不安定だった当時の明治政府は、これらの旧家を敵に回すと厄介なことになると考えました。そこで、これら諸家に「華族」としての爵位を設け、いくつかの特権を与えたのです。

「公家華族」「大名華族」「勲功華族」

「華族」には主に「公家華族」「大名華族」「勲功華族」などが存在します。

・「公家華族」

古くは奈良時代から、天皇家を守ってきた公家の家系など。

・「大名華族」

戦国時代以来、諸国を統治していた諸大名の家系など。

・「勲功華族」(新華族)

明治維新の勲功や、その後の日清、日露戦争などの国歌への功により当時の政治家、軍関係者らが爵位を獲得していったもの。新華族とも呼ばれる。

「公・候・伯・子・男」の「五爵制」

「華族」の中にもグレードがあり、爵位は「公・候・伯・子・男」の「五爵制」でした。具体的には、上から「公爵(こうしゃく)」「侯爵(こうしゃく)」「伯爵(はくしゃく)」「子爵(ししゃく)」「男爵(だんしゃく)」です。

第一位の「公爵」は、公家でいえば摂家(近衛、九条家など5家)など、武家でいえば「将軍家」に与えられました。ほかに岩倉家(岩倉具視の功)、島津家宗家(島津忠義の功)などにも公爵の位が与えられました。

以下、第二位の「侯爵」は公家では摂家に次ぐ格式の清華家など、武家では徳川御三家、十五万石以上の大名などが、第三位「伯爵」は平公家のうち大納言を多く輩出した家、五万石以下の大名や徳川御三卿などといったように、それぞれの家格(公家)や現米=収入(武家)により爵位が決められました。

葉山家(モデルは柳原家)は「公家華族・伯爵」

「花子とアン」の蓮子の生家・葉山家は「公家」であり、第三位の「伯爵」の家です。これは、葉山家のモデルとなった柳原家(柳原白蓮=柳原燁子の生家)の爵位を参考にしています。

「花子とアン」劇中で蓮子の兄・晶貴(飯田基祐)がしきりに世間への体面を気にしていたのは、一族に不祥事等があれば爵位の剥奪など厳しい処分があったからでしょう。「宮内大臣」「宮内省」などの監督下に置かれていた華族は、特権を与えられる代わりに、個人としての自由が大きく制限されていました。

華族の数 後年は「勲功華族」多数誕生

明治17年の「華族令」公布時には、500余りの家に爵位(公家・諸侯約500家、伊藤博文家など勲功による爵位29家)が与えられました。

その後、軍国主義の隆盛とともに「勲功華族」は増え続け、最終的に1,000家にのぼる華族が存在しましたが、敗戦後の昭和22年、新憲法制定により華族令は廃止されます。

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