NHK連続テレビ小説「あさが来た」第24週(2016年3月14日〜)より。女子大学校設立に奔走するあさ(波瑠)は、榮三郎(桐山照史)に対し炭鉱事業の売却を提案します。
この記事では、ドラマと史実における、炭鉱売却までの経緯などをまとめます。
日清戦争の反動不況 炭鉱売却へ?
「あさが来た」第24週。時代は明治30年(1897年)頃になっています。相変わらず女子大学校設立に奔走していたあさですが、日清戦争(1894〜1895年)後の「反動不況」という世情を読み取り、九州・加野炭鉱の売却を榮三郎に提案します。
加野銀行の経営が軌道に乗ったこと、それに榮三郎が力を入れ始めていた生命保険事業に備えて資金が必要な事情もあったのでしょう。あさは、順調な炭鉱事業を今のうちに売却するのがよいと考えているようです。
明治30年頃といえば、石炭は各産業を支える重要な燃料でした。明治4年(1871年)の買収以来、加野屋にとって石炭事業は重要な収入源であるだけに、難しい決断を迫られる提案ともいえそうです。
加島屋の「潤野炭鉱」
加野屋のモデルである加島屋は、明治19年(1886年)に九州・潤野炭鉱を買収し、炭鉱事業に参入しています。ドラマとは違い、当初の加島屋の炭鉱事業は思ったような産出量をあげられず、一度は休業に追い込まれています。
明治29年(1896年)頃、広岡浅子は周囲の反対を押し切り、自ら九州に赴いて炭鉱の再開発に着手。納屋頭、炭坑夫らと苦労を重ねた末、新しい坑道で石炭の鉱脈を発見し、翌明治30年(1897年)頃には潤野炭鉱の産出量を急増させることに成功しています。
国から買収オファーが届く
明治32年(1899年)になると、明治政府が国の増産政策のために立ち上げた「官営製鉄所」から、燃料確保のために潤野炭鉱を買い取りたいというオファーが届きます。
加島屋は、当時としては破格の35万円という金額で炭鉱事業を売り抜けることに成功しています。※潤野炭鉱は「官営八幡製鉄所・二瀬出張所」、後に「日本製鉄株式会社二瀬鉱業所」となり、昭和38年(1963年)に閉山しています。
石炭に国家的需要
「あさが来た」の加野炭鉱も、史実の潤野炭鉱売却と似たような流れになるのではないかと予想します。
やがて大正時代に入ると、日本初の電気機関車(横川〜軽井沢間)が走り、昭和にかけて次第に電力が蒸気力にとって変わる時代へと突入していきます。石炭の国家的需要が見込まれる高値の時期に炭鉱事業を売り抜けられれば、加野屋にとって大きな利益となることでしょう。
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