NHK歴史秘話ヒストリア「富岡製糸場 世界遺産へ」まとめ①

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2014年5月21日(水)放送のNHK歴史秘話ヒストリアは「富岡製糸場 世界遺産へ~世界を魅了した少女たちのシルク~」。世界遺産への登録が迫る群馬県の富岡製糸場が特集されました。

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目次

日本の近代化に大きく寄与した富岡製糸場

富岡製糸場が操業を開始したのは明治5年(1872年)。近代化が悲願だった日本が国の威信をかけて建設した、国営の近代製糸工場です。

フランス式の労働環境を取り入れた富岡製糸場は、女性が働く環境としてとても先進的でした。労働時間は一日八時間未満、日曜日は休みで、夏休み冬休みも十日ずつあったそうです。

後に全国でできた「民営」の製糸工場では「女工哀史」などに代表される過酷な搾取と労働環境により、多数の女工が命を落としたり病気にかかったりしました。富岡製糸場は少なくとも民営化される前までは良好な労働環境が保たれていたそうです。

当時の女工たちが目指したのは「一等工女」。一等工女は給与も服装も特別待遇で、浮世絵に描かれるほどの憧れの存在でした。番組では一等工女を目指して技を磨き、懸命に働いた若き女工たちの青春の日々が紹介されました。

▲かつて工女たちが300人並び、一斉に作業をしていたという繰糸場。
Photo by: yoppy

「西洋人に生き血を吸われる」女工が集まらず

当初は「西洋人に生き血を吸われる」(笑)と言われ恐れられ、女工が集まらなかった富岡製糸場。どうやらこれは、技術指導のためにやってきたフランス人技師が赤ワインを飲んでいたのを生き血と見間違えたことから発生したウワサのようです。

やがて初代工場長・尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の娘・尾高ゆう(14歳)が第一号の工女として働き始めると「生き血」の噂は消え、全国から続々と十代の若い少女たちが集まります。その数188名で、少女たちの中には技術を学びにやってきた士族の娘も多かったといいます。

女工・横田英の手記に綴られた当時の生活

明治6年(1843年)、長野県からやってきた女工・横田英(よこた・えい=当時15歳)もそんな士族の娘のひとりでした。英は富岡での女工生活を手記として克明に残しています。

女工たちの一日の労働は朝7時から始まり、途中に昼休み、休憩を計三回入れて午後4時30分まで。工場に入った女工たちは当初は下積み作業から始め(等外=見習い、年収9円)、技量によって「三等工女」、「二等工女」、「一等工女」(一日で生糸四束を取れる、年収25円)と等級が認定されるシステムでした。

赤いたすきと高草履が許され、街なかでも憧れの存在だったという「一等工女」は女工たちの憧れ。全体の3%程度しか一等工女にはなれなかったと言います。

また、工女たちは馴染みの呉服店に出かけては月払いで着物を買い、休日にはおしゃれをして出かけたそうです。富岡製糸場の工女たちは士族の娘が多く余裕があったこともあるのか、よく働き休日も楽しむ青春の時間を楽しんでいたようです。

以上のような恵まれた労働環境は、あくまで官営の時代の話。のちに経営が民間へと譲渡されるとすぐにストライキが発生するなど、急速に労働環境が悪化していったそうです。

次の記事「NHK歴史秘話ヒストリア「富岡製糸場 世界遺産へ」まとめ②」では「歴史秘話ヒストリア」で紹介された富岡製糸場と日本の生糸産業の関連施設をまとめています。

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