いよいよ最終週を迎えるNHK連続テレビ小説「花子とアン」。
最終週では、お互いの考えの食い違いから戦争中に決別してしまった「腹心の友」、村岡花子(吉高由里子)と宮本蓮子(仲間由紀恵)が和解します。花子の後押しもあり、蓮子は戦争で愛する子供を失った母親たちのために、平和活動を開始します。
この記事では、息子を失うという悲しみと向き合った蓮子のモデル・宮崎燁子(柳原白蓮)の戦後についてまとめます。「花子とアン」では「赤毛のアン」出版の時期あたりで最終回を迎えますので、蓮子のその後の人生が詳細に描かれることはないと思われます。
戦後、ラジオに出演平和を訴えた白蓮
史実では戦争終結の翌年(1946年新春)、村岡花子は5年ぶりにラジオに出演しています。4夜連続で放送されたこの特別番組を聞いたリスナーからは、花子の声を懐かしむたくさんの反響が届いたそうです。
一方、宮崎燁子も同年5月にNHKラジオに出演しています。燁子はマイクの前で前年に長男・香織を戦争で失った悲しみを語り、同時に平和の大切さを訴えかけました。
「悲母の会」結成 平和活動に従事
この放送がきっかけとなり、燁子は「悲母の会」を結成します。これは戦争で子供を失った母親のための団体であり、燁子は全国に支部を設立するために各地を行脚します。やがてその活動は海外にまで波及し、「国際悲母の会」に発展します。
「国際悲母の会」はその後「世界連邦婦人部」となり、燁子は中心的人物として活動。平和活動に従事し続けます。
晩年は龍介や家族に囲まれ歌を詠んで過ごす
燁子は77歳の時に緑内障により失明し、夫・龍介の介護を受けながら歌を詠む日々を送ります。そして1967年(昭和42年)、83歳でこの世を去っています。晩年は龍介や娘夫婦に見守られ、穏やかな日々だったそうです。龍介は燁子の死の4年後に、79歳で亡くなっています。
若い時代、波瀾万丈でスタートした二人の夫婦生活でしたが、晩年は穏やかな時が流れ、二人は幸せを噛み締めながらこの世を去っていったようです。
なお、「伝さま」こと嘉納伝助(吉田鋼太郎)のモデルである伊藤伝右衛門は、終戦後の1947年(昭和22年)に福岡の自宅で亡くなっています。86歳でした。伝右衛門は燁子との離婚後は再婚することはなく、長年の妾だったさとが晩年まで伝右衛門に寄り添っていました。
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