NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」に登場する蔦屋の向かいの蕎麦屋「つるべ蕎麦」。主人公の蔦重(横浜流星)らを幼少期から可愛がるつるべ蕎麦の主人・半次郎役を六平直政が演じます。
この「つるべ蕎麦」ならびに半次郎は、吉原遊郭前に実在した「釣瓶そば」ならびに増田半次郎がモデルとなっています。
【べらぼう】吉原の入口・五十間道 「蔦重」商売スタート
この物語の主人公「蔦重」こと蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)は、江戸郊外の遊郭・吉原(新吉原)で貧しい庶民の子として生まれ、訳あって吉原有数の引手茶屋「駿河屋」の養子になっています。
この「駿河屋」主人・駿河屋市右衛門(高橋克実)の放蕩息子・次郎兵衛(中村蒼)は吉原大門へと通じる遊郭の入口の道・五十間道(ごじっけんみち)で引手茶屋「蔦屋」の経営を任されています。
「蔦屋」は名目上は次郎兵衛が経営者となっていますが、実際は商才がある義弟の重三郎が切り盛りをしています。重三郎は「蔦屋」の店先を借りて貸本屋を開業させると、その才覚を活かし版元として江戸の出版文化を牽引する存在になっていきます。
蔦屋重三郎にとって、吉原・五十間道は商いをスタートさせた思い出の地。大河ドラマ「べらぼう」物語序盤では、吉原・五十間道における重三郎の若き日々が描かれていきそうです。
▼現在も残る五十間道のS字カーブ。表通りである日本堤(吉原土手。現在は土手通りに名残を残す)から吉原遊郭の町並みが見えないようにデザインされていました。五十間道は吉原大門(よしわらおおもん)の門前にあり、多くの人が行き交いました。
▼広重の「東都名所図」に描かれた吉原全景。左下に見えるのが吉原大門で、さらに左にS字の五十間道・衣紋坂が続いていました。
【べらぼう】蔦重たちを見守る「つるべ蕎麦」主人の半次郎
この五十間道「蔦屋」の向かいには「つるべ蕎麦」があります。NHKによれば、六平直政が演じる「つるべ蕎麦」の主人・半次郎(はんじろう)の人物設定が以下のように紹介されています。
五十間道、茶屋・蔦屋の向かいにある蕎麦屋“つるべ蕎麦”の主。幼いころから蔦重(横浜流星)や次郎兵衛(中村 蒼)を見守ってきた。
半次郎は血気盛んな重三郎とお気楽な放蕩息子・次郎兵衛を温かく見守ってくれそうですね。
六平直政といえば、大河ドラマ「元禄繚乱」(1999年・奥田孫太夫役)、「義経」(2005年・土佐坊昌俊役)、「八重の桜」(2013年・黒河内伝五郎役)やNHK朝ドラ「まんぷく」(2018年・稲村大悟役)、「らんまん」(2023年・磯部役)など数々の名作に出演してきた名優。
持ち前の強面から繰り出される、人情あふれる演技が期待されます。
【史実モデル】吉原門前・五十間道の名物「釣瓶そば」 主人の増田半次郎
▼安永4年(1775年)刊行のガイドブック「吉原細見」に掲載された吉原大門に続く五十間道の絵地図。
下段左から4番目に「つたや次郎兵衛」、向かいの上段中程に「ツルベソバ・ますだや半二郎?」らしき文字が見えます。
▼吉原大門門前の五十間道・衣紋坂から日本堤方面を眺めた歌川広重「新吉原衣紋坂日本堤」。
大河ドラマ「べらぼう」に登場する「つるべ蕎麦」ならびに主人の半次郎は江戸時代の吉原・五十間道に実在した吉原名物「つるべそば(釣瓶蕎麦)」とその主人・増田半次郎がモデルになっていると考えられます。
江戸時代の風俗や生活を克明に記録した喜田川守貞の類書「守貞漫稿(もりさだまんこう)」には、遊郭・吉原(新吉原)の名物として以下の七品が挙げられています。「つるべそば」も七大名物に認定されています。
▷「袖の梅」…酔いを醒ます丸薬。どの遊女屋にもあった。
▷「巻せんべい」…仲之町の有名なお菓子屋「竹村伊勢」が売っていた。折り詰めにして進物に使った。
▷「吉原細見」…毎年刊行される吉原遊郭のガイドブック。蔦屋重三郎が出版業を始める手がかりとなった。
▷「かんろばい(甘露梅)」…水道尻(吉原の裏出入り口)にある「山口屋半四郎」で売っていた梅。客たちは新年の贈り物にこの甘露梅を遊女屋に持参したとか。
▷「つるへ(釣瓶・つるべ)そば」…大門を入る手前の五十間道にある、縄のれんをかけた蕎麦屋「増田半次郎」のこと。
▷「最中の月」…最中の皮を使ったお菓子で「松屋忠次郎」の商品。
▷「豆腐、あげや丁」…山屋市右衛門の店の豆腐。
この七大名物を見てもわかる通り、吉原では遊女屋、引手茶屋などを中心として飲食業、製菓業、出版業などが発展。街全体で持ちつ持たれつの経済圏を形成していました。江戸名所の吉原には遊女目当ての多くの男性客が集まりますから、当然彼らを目当てにした商売がどんどんと生まれてくるわけです。
増田半次郎が営む五十間道の「つるべそば」は、その立地を活かして名物店として繁栄したようです。
江戸市中から駕籠(かご)に乗ってきた客は駕籠が吉原大門を通れない決まりになっていたため、その手前の五十間道付近で駕籠から降りるのが通例となっていました。
ちょうど五十間道「つるべそば」の店舗前あたりで駕籠を降りた客たちは、まずは腹ごしらえをしようと名物の「つるべそば」を楽しんだわけです。
吉原遊廓の入口は基本的に正面の吉原大門のみであり、日本堤から衣紋坂、五十間道へと続く吉原遊郭への入口は必然的に多くの人々の通り道となりました。
江戸を代表する出版人となった蔦屋重三郎は「つるべそば」のすぐ向かい、往来行き交う五十間道で義兄が営む引手茶屋「蔦屋次郎兵衛店」の一角を間借りし、24歳の頃に本屋「書肆耕書堂」を開業しました(安永2年・1773年)。
重三郎は生まれながらに吉原遊郭の情報通だったため、遊郭に遊びに来た人々を相手にしたガイドブック・吉原細見「細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)」の調査・情報収集・編集・販売などを手掛けるようになり、出版人として成功を収めていきます。当然ながら、重三郎が店の向かいにある「つるべそば」に出入りしていたであろうことが推測できます。