朝ドラ「あんぱん」第12回 釜じいがラジオを欲しがった理由とは? 2年前には「カムカム」算太がラジオを盗む

※本ページのリンクには広告が含まれています。

2025年4月15日(火)放送のNHK連続テレビ小説「あんぱん」第12回より。

御免与町で開催されるパン食い競争の一等賞品がラジオだと知った釜次は、「優勝してラジオをもろうてきてくれ」と豪に頼みこむことになります。釜次が突然ラジオを欲しがった理由とは…。

スポンサーリンク

目次

昭和10年、賞品のラジオを欲しがる釜次

1935年(昭和10年)。貴島中尉(市川知宏)の手助けもあり、朝田パンの売上アップを目論んだパン食い競争大会が御免与神社で開催されることになります。

一等の賞品は当時としてはとても高価なラジオ。それを知った釜次(吉田鋼太郎)は、石工見習いの原豪(細田佳央太)にパン食い競争への参加を頼みこむことになります。

釜次「パン食い競争で優勝してラジオをもろうてきてくれ。ラジオがありゃあいろんな世界が分かるじゃろ。遠い町…遠い国のこと。わしも知りたい。感じてみとうなったがじゃ。」

くら「足が痛うてもラジオがありゃあ…。頼むで〜豪ちゃん!」

これまで頑固一徹、新しいものへの興味などなかった釜次ですが、この発言には亡き息子・結太郎(加瀬亮)への想いが込められていそうです。

生前の結太郎は、アメリカにもイギリスにも負けない日本一の貿易会社を作るという大きな夢を持っていました。結太郎はそのために商社に勤めて世界各地を飛び回り、さまざまな見聞を広めているところでした。

釜次はそんな結太郎と違って石工一筋であり、ほとんど御免与町からも出たことがないのでしょう。

「ラジオがありゃあいろんな世界が分かるじゃろ。」という釜次の発言は、志半ばでこの世を去った結太郎が見ていたものを理解したい、わかってあげたいという親心から出たものでしょうか。

そんな釜次の期待を一身に受けてパン食い競争に出場した豪でしたが、力は強いが足は遅いという欠点が露呈して最下位になってしまい…。

この2年前に「カムカム」算太がラジオを盗む

ドラマの時代設定である1935年(昭和10年)頃は、ラジオは高価なものであり庶民には高嶺の花でした。

日本で初めてラジオ放送が行われたのは、1925年(大正14年)3月22日のこと。御免与町でパン食い競争が開催されたのはそれからわずか10年後(1935年)のことですから、まだまだ各家庭にラジオは普及していなかったわけです。

このあたりの時代背景は、ラジオ放送の歴史を主テーマとして扱った朝ドラ「カムカムエヴリバディ」が参考になるかと思います。

「カムカムエヴリバディ」第1週は、「あんぱん」第3週とほぼ同時代の1933年(昭和8年)からスタートしています。

※「カムカム」初代ヒロインの安子はちょうど日本のラジオ放送が始まった1925年(大正14年)3月22日の生まれ。「あんぱん」のヒロイン・朝田のぶの6歳下、メイコの2歳下の学年と考えると時代がわかりやすいかと思います。

1933年(昭和8年)。8歳の橘安子(子役・網本唯舞葵)は近所の荒物屋「あかにし」が町で最初に購入したラジオに憧れ、橘一家の夕食時にはラジオを購入するかどうかの家族会議が行われています。

家長の杵太郎(大和田伸也)は「そんな贅沢品はいらん!」とあっさりと却下しますが、翌朝安子が起きるとなぜか家にラジオがありました。このラジオ、実は兄の算太(濱田岳)が荒物屋の「ケチ兵衛」のところから盗んできたものであり…。

とまあ、このようなてん末が描かれるほど、昭和初期のラジオは高価であり庶民の憧れのものでした。

「あんぱん」第3週の時代設定である1935年(昭和10年)は、岡山で算太がラジオを盗んだ2年後の話であり、まだまだラジオは手が届きにくいものだったことでしょう。

のぶは繰り上げ一等になった千尋から賞品のラジオを譲ってもらうと、近所の子供たちを集めて朝のラジオ体操会を開くことになります。

「カムカム」の「ケチ兵衛」も近所の人たちを集めて町のラジオ体操会を取り仕切っていましたし、2つの作品の世界観が重なっていますね。

スポンサーリンク

スポンサーリンク

シェアお願いします
目次