NHK連続テレビ小説「あさが来た」ヒロイン・白岡あさ(波瑠)のモデルである女性実業家・広岡浅子。
「一代の女傑」として知られる浅子は、こんにちでも有力企業として知られる「大同生命」の設立に貢献したことでも知られます。この記事では、浅子(加島屋=広岡家)が中心となった大同生命設立の経緯と、社名の由来、その後などをまとめます。
※「大同生命」は、ドラマでは「淀川生命」として登場するようです。
加島屋の保険事業「朝日生命」テコ入れ
大同生命は、1902年(明治35年)に浅子の嫁ぎ先である加島屋が主体となって立ち上げられています。
加島屋はそれ以前から保険事業を手がけ「朝日生命」(明治28年設立。現在の朝日生命とは無関係)を所有していましたが、わずかながらも欠損が出ており、事業として上手くいっていたわけではありませんでした。
3社合併、大同生命に
そこで浅子が中心となり他社との合併を模索。「護国生命」(明治29年設立)と「北海道生命」(明治31年設立)との間で合併話がまとまり、「加入者本位・堅実経営」を掲げた新たな会社「大同生命」が誕生します。
大同生命はこの合併により保険商品の品目が増加。その魅力的な商品構成もあり、客足は伸びていきます。また、医学の進歩により寿命が長くなったこと、社会の工業化により各種事故のリスクが増加したことなど、世の中の保険に対する需要の高まりを受けて経営は安定。大同生命は加島屋を支える大きな事業に成長していきます。
「小異を捨てて大同につく」大同生命社名由来
こんにちでもお馴染みの「大同生命」という社名。これは中国の故事「小異を捨てて大同につく(求大同,存小異)」に由来します。
意味としては「多少の意見の食い違いがあっても、大勢が支持する意見、大筋で一致しているところをとって従うこと」といったところ。
大同生命設立時、朝日生命から5名、護国生命から7名、北海道生命から1名の役員を出したことからもわかるように、互いに「小異」ではなく「大同」をとり、協力して事を成し遂げようという願いが社名に込められています。
歴代社長は広岡家から 大同生命のその後
とはいえ、設立時の株主の構成を見ると、大同生命の経営は加島屋がその中心でした。
設立時、大同生命全体の株の七割を加島屋の広岡正秋(浅子の義弟、白岡榮三郎のモデル)と広岡信五郎(浅子の夫、白岡新次郎のモデル)の二人で持っていたとされ、初代社長には広岡正秋が、副社長には広岡信五郎が就任しています。
その後、大同生命では四代目まで広岡家の人間が社長を務めています。
・初代社長 広岡正秋(浅子の義弟)
・二代目社長 広岡恵三(浅子・信五郎の娘婿)
・三代目社長 広岡正直(正秋の娘婿)
・四代目社長 広岡松三郎(信五郎の庶子)
大同生命は1947年(昭和22年)に相互会社に転じると、加島屋が営む会社から保険契約者がオーナーである会社へと移行。その後も繁栄を保ち、こんにちの大同生命に至っています。
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