加野屋と山王寺屋(加島屋と天王寺屋)のあった場所、両家の距離

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NHK連続テレビ小説「あさが来た」に登場する大阪の豪商「加野屋」「山王寺屋」が大阪のどの辺りにあるのか、両家の距離がどのくらいかを、史実のモデル「加島屋」「天王寺屋」を参考にしてまとめます。

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目次

加島屋は土佐堀川・肥後橋南詰

まずはあさ(波瑠)が嫁いだ「加野屋」から。加野屋のモデルとなっているのは広岡浅子が嫁いだ「加島屋」(広岡家)です。

この加島屋ならびに広岡家本家があった跡地は現在、「大同生命大阪本社」(大阪市西区江戸堀1丁目2番1号)になっています。

▲現在の「大阪本社ビル」。広岡浅子はこの地で奮闘していたわけです。

大同生命は1902年(明治35年)に加島屋ならびに広岡浅子が中心となり設立されました。その後1947年(昭和22年)に保険契約者をオーナーとする「相互会社」となるまで代々広岡家の人間が社長を務め、加島屋の手で経営が行われています。

1922年(大正11年)には、土佐堀川・肥後橋前にあった加島屋本家の屋敷を取り壊し、大同生命新社屋(旧肥後橋本社ビル)が建てられます(※浅子はその3年前、1919年に死去)。

この新社屋は、アメリカ人建築家のウイリアム・メレル・ヴォーリズが設計した鉄筋コンクリート9階建て、近世ゴシック様式の華麗で重厚な建物でした。
(※ヴォーリズは浅子の娘婿・広岡恵三の妹である一柳満喜子の夫)

残念ながら「旧肥後橋本社ビル」は老朽化のため1990年に解体。その後、同敷地に現在の「大同生命大阪本社ビル」が建てられています。敷地の南西角には、かつて「旧肥後橋本社ビル」で使われていた華麗な壁面が移築されており、誰でも見学することができます。

▲文庫版「小説 土佐堀川」の表紙には、在りし日の「大同生命・肥後橋本社ビル」と肥後橋の様子が描かれています。「土佐堀川」という題名も、目の前を流れる川が由来。

天王寺屋は今橋西側

続いて、はつ(宮﨑あおい)が嫁いだ「山王寺屋」のモデルである「天王寺屋」のあった場所についてまとめます。「天王寺屋」は「今橋天王寺屋」とも呼ばれていました。

大阪市のホームページに「今橋(いまばし)」に関する説明があり、その文章に「天王寺屋」のあった場所が明記されています。以下、引用します。

今橋(いまばし)

大阪の陣の様子を描いた絵図にこの橋の名が記されていることから、豊臣時代には既に存在したと考えられる。

江戸時代には、橋の西側に平野屋五兵衛、天王寺屋五兵衛など大物両替商が軒を並べ、大阪の金融の中心地であった。(以下略)

この記述と、天王寺屋が「今橋通りと交差する八百屋町筋(堺筋と板屋橋筋の間)にあった」とされる情報から、おおよそ現在の「コルマー北浜ビル(白木屋)」(大阪府大阪市中央区今橋1丁目6−19)近辺に天王寺屋があったのではないかと推測します。

天王寺屋はその後没落し明治期には御家が断絶しており、加島屋・大同生命のような敷地の継承はなされていません(追記:一部報道で子孫が現存するとの情報もあるようです。詳しいことがわかり次第追記します)。

加島屋と天王寺屋の距離は?

ドラマではあさが「散歩がてら」といった感じで山王寺屋を訪ねる場面があります。加島屋と天王寺屋があった場所は直線距離で1キロほどなので、加野屋と山王寺屋も十分に通える距離だと言えるでしょう。

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