女子大学校設立に注いだ広岡浅子の情熱がわかるエピソード【あさが来た】

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NHK連続テレビ小説「あさが来た」第20週(2016年2月15日〜)放送分において、あさ(波瑠)は成澤泉(瀬戸康史)の教育論に感涙し、極端と言えるほど急激に、成澤に協力していくことになります。

こうしたあさの熱意は、広岡浅子が見せた女子大学校設立への情熱がモデルとなっています。この記事では、広岡浅子がいかに成瀬仁蔵が目指した女子大学校設立構想に共感し、情熱をもって協力していったかをまとめます。

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目次

「スグキハンアリタシ」電報を要請

成瀬仁蔵の教育論「女子教育」を読み感銘を受けた広岡浅子は、すぐに成瀬仁蔵に全面的な協力を約束しています。そんな浅子の情熱を物語る書簡が現在でも残されています。

明治29年当時、潤野炭鉱の再開発に着手したことで大阪と九州を往復する多忙な生活をしていた浅子。伊藤博文と面会し女子大学校設立への賛同を得るなど、すでに成瀬を強烈にバックアップし始めていた浅子は、「発起人組織の立ち上げが急務」と伝えてきた成瀬との書簡で、次のようなやり取りをしています。

それによれば、浅子は成瀬に対し「スグキハンアリタシ(すぐ帰阪ありたし)」という内容の電報を送るようにと要請しています。当時の浅子は超多忙で、九州の炭鉱事業から手が離せない状態。そこで炭鉱から抜け出しやすくするために、成瀬に前述のような電報を要請したのです。

これにより浅子は帰阪し、成瀬と二人三脚でことを進めていくことになります。当時の浅子が家業をおいてでも女子大学校設立を成し遂げたいと考えていた様子がわかります。

▼日本女子大学の創設者、初代校長として知られる成瀬仁蔵。
画像はWikipediaより転載(パブリックドメイン)。

「創立事務所日誌」に残る浅子の活動記録

「日本女子大学校創立事務所日誌」には、浅子がヤル気を全開にし、多くの有力者たちに女子大学校設立の意義を説いて回った記録が残されています。

浅子は伊藤博文前総理、大阪造幣局長・長谷川為治、奈良の山林王・土倉庄三郎などと次々と会い、向かった東京では公爵・近衛篤麿、侯爵・渋沢栄一、大倉喜八郎、それに大隈重信・綾子夫妻など名だたる有力者たちから賛助、賛成の約束を取り付けています。

浅子の問題意識に合致した「女子教育」

あさは成澤泉に出会って以降、急激に女子教育分野へ傾倒していきます。それまで女子行員の教育はしていたものの、女子教育についてそこまで熱烈に執着していなかったように見えたあさですから、視聴者としては「急にどうしたの!?」と思ってしまうかもしれません(笑)。

史実の広岡浅子もまた、みすぼらしい格好で理念を語る成瀬仁蔵の協力要請を一度は「門前払い」しています。

その後、成瀬の教育論「女子教育」(ドラマでは「女子ノ教育ニ就イテ」として登場)を読んだことで浅子は大きく心変わりしており、いかに「女子教育」という著書が素晴らしく、当時の浅子の問題意識と合致していたかがわかります。

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