NHK連続テレビ小説「あさが来た」第5週より。この週に、はつ(宮﨑あおい)が嫁いだ山王寺屋はついに倒産し、一家で夜逃げをすることになります。
この記事では、山王寺屋の実在のモデル・天王寺屋が江戸時代にいかに隆盛を極めていたか、また、明治維新期に大阪の両替屋がどれだけ倒産したのか、などについてまとめます。
山王寺屋(天王寺屋)はどれだけスゴかった?
姑・眉山菊(萬田久子)の天よりも高いプライドが表していた通り、山王寺屋は大阪随一の両替商でした。しかし幕末から維新の動乱により御家は一気に傾き、ついには借金を抱えて倒産してしまいます。
ドラマの時代より40〜50年ほどさかのぼりますが、文政8年(1825年)につくられた「浪華持丸長者控」という長者番付に、当時の両替商たちのランク付けがなされています。
「勧進元」三井八郎右衛門(「今井家」のモデル、「三井家」の惣領家)
「差添人」天王寺屋五兵衛(「山王寺屋」のモデル)「行司」三井呉服店ほか(三井一族経営)
「大関」鴻池善右衛門
「大関」加島屋久右衛門(「加野屋」のモデル。本家)「関脇」辰巳屋久左衛門
「関脇」鴻池善又右エ門
以下、小結・前頭に住友、米屋、平野屋、近江屋、桝屋、茨城屋、塩屋、油屋、炭屋などが顔を並べ、広岡信五郎(新次郎モデル)が養子に出ていた分家・加島屋五兵衛家も前頭16枚目に顔を出しています。
三井と天王寺屋は別格扱い
「勧進元」三井八郎右衛門と「差添人」天王寺屋五兵衛は番付外別格扱い。鴻池と加島屋が当時の番付最高位「大関」に肩を並べています。
大坂で初めて手形による金融を始めた天王寺屋は、寛文10年(1670年)には大坂町奉行により両替商を統括する「十人両替仲間」の筆頭に任命されています。このことや上記番付からも、山王寺屋のモデルである天王寺屋がいかにスゴい家だったかがわかると思います。
大阪の両替商、バタバタと倒産
幕末から明治にかけて、大阪の両替商は時代の波にのまれ、次々に倒産していきました。天王寺屋をはじめ平野屋、桝屋、茨木屋、万屋、炭屋、泉屋など、前述の番付に堂々ランクインしていた名家が次々に没落。その数は大阪だけで40軒にものぼったとされ、最後には鴻池と加島屋だけが残されたとか。
没落した両替商の多くは、
・廃藩置県により藩が消滅し「大名貸し」をしていた資金が回収困難になったこと
・銀目廃止により殺到した現金引き出しの混乱のあおりを受けた
・全国で貨幣が円に統一され、そもそも両替商という業種の需要がなくなった
ことなどが原因で倒産しています。
「あさが来た」でも、時代の変化に敗れる両替屋(山王寺屋)、時代の変化をチャンスとして躍進する両替屋(加野屋)という両極の姿が描かれます。
史実の天王寺屋は明治中期に御家断絶。現在子孫は残っていないとか。