後藤又兵衛(基次)が姫路城へ戻る 後の「黒田二十四騎」【軍師官兵衛】

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NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第27回放送より。かつて幼少期に松寿丸(長政)と共に育った後藤又兵衛(塚本高史)が姫路城へと戻ってきます。

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官兵衛に引き取られた又兵衛

「軍師官兵衛」のドラマにおける後藤又兵衛=後藤基次=は、幼少の頃に父(小寺政職に仕えていた)が病死し、黒田官兵衛(岡田准一)に引き取られています。又兵衛は官兵衛の息子・松寿丸=後の黒田長政=(若山耀人)より八つほど年上で、松寿丸とは兄弟のように育てられました。※史実では10代の頃より官兵衛に仕えたとも。

「軍師官兵衛」の過去の放送では、たびたび又兵衛と松寿丸が剣術の稽古をしている場面が描かれています。年上である又兵衛は剣術で松寿丸を常に圧倒。二人の間には知らず知らずのうちに「兄」「弟」のような上下の関係が芽生えています。

伯父に従い黒田家を去る

姫路城で大切に育てられてきた又兵衛でしたが、伯父・藤岡久兵衛が毛利方に寝返った小寺に追従したため、血縁である又兵衛も止むなく黒田家を去る事になります。別れの際、又兵衛は光(中谷美紀)と名残惜しそうに会話をしており、黒田家を去る事が本意ではなかったことが窺われます。

第27回放送では、その又兵衛が再び姫路城へと帰ってきます。再び姫路へと戻ってきた又兵衛はこの後、黒田家を代表する猛将へと成長していきます。こうした又兵衛の活躍ぶりに、黒田家嫡男・長政は複雑な心境を抱くようで…。

のちの「黒田二十四騎・後藤基次」


▲「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」に挙げられる後藤基次。官兵衛、豊臣秀頼に仕え、多くの軍功を挙げた。
画像はWikipediaより転載

又兵衛は、官兵衛に息子同然に扱われ戦のイロハを教わり、やがて「黒田二十四騎」「黒田八虎」に名を挙げられる有能な武将になります。関ヶ原の戦いでは東軍についた黒田家の先鋒として敵将を討つなど、数多くの軍功を挙げていきます。

関ヶ原の戦いでの功績が認められた黒田家が福岡に移ると、又兵衛も一万六千石という大名並みの待遇を得て、隣接する細川藩に近い重要拠点「益富城」を任されています。

長政との不仲 黒田家を出奔し浪人に

1604年に官兵衛が亡くなると、又兵衛は黒田家の家督を継いだ長政と不仲となり、黒田家を出奔してしまいます。※官兵衛の死後、又兵衛の息子が長政にいじめられたという説もあり。

又兵衛は官兵衛の三回忌を待った上で(又兵衛の義理深さのあらわれとされる)、家族を引き連れて福岡の黒田藩を出奔。行橋に辿り着き、家族らを細川藩主・細川忠興に預けると、船で九州から旅立っています。その後、松山、鳥取などの知り合いを頼りに転々とし、妹が世話になっていたという故郷・姫路の芥田家に世話になっています。

運命の地・大坂城に入城

この時期、いよいよ豊臣攻め(=大阪の陣)が決まり又兵衛の力を警戒していた家康サイドから、「黒田家に戻るように」と促す手紙が又兵衛に届いています。しかし、その条件として又兵衛の家族を福岡城下に差し出す(つまり、黒田のもとで人質扱い)という条項が盛られており、こうした家康や長政らのやり方に又兵衛が反発し豊臣方に参加、大坂城に入城したという説もあるようです。

「死に場所を求めて」(※「真田丸」で用いられた表現)大坂城へとやってきた浪人・後藤又兵衛。この時、又兵衛は55歳であり、又兵衛自身も「最期の戦い」という予感があったのでしょうか。真田信繁ら「大阪城五人衆」と親交を深め、いよいよ運命の「大阪冬の陣」「大坂夏の陣」へと突入していきます。

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