マッサンの職歴、経歴まとめ①竹鶴氏略年表も 住吉酒造〜留学〜皿洗い

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NHK連続テレビ小説「マッサン」より。物語を途中から見始めた方も多いと思いますので、2月放送分あたりまでにマッサンがドラマ内で辿ってきた職歴を整理しておきます。文末にはモデルとなった竹鶴政孝氏の略年表もまとめました。

マッサンの職歴を大まかにまとめると、

学校卒業→大阪・住吉酒造→スコットランド留学(二年)→帰国→住吉酒造→無職(食堂こひのぼりの皿洗い)→鴨居商店(工場長、営業職を歴任)→北海道果汁(ドウカウヰスキー)株式会社設立 という流れです。

以下、詳しく職遍歴を見ていきます。※追記されている史実は、モデルとなった竹鶴政孝氏の経歴です。

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目次

大阪の学校で醸造学を学ぶ

マッサンこと亀山政春(玉山鉄二)は、広島・竹原市で古くから続く造り酒屋「亀山酒造」(史実では「竹鶴酒造」)の息子として生まれています。

実兄は酒造業とは別の道に進んだため、マッサンは亀山酒造の跡取り息子として期待され、地元の忠海(ただのうみ)中学を卒業後、大阪の醸造系の学校(史実では大阪高等工業学校醸造学科=現在の大阪大学工学部)に進学しています。

住吉酒造に入社 醸造の基礎を学ぶ

学校を卒業後、マッサンは大阪の酒造メーカー・住吉酒造に入社しています(史実では「摂津酒造」。飛び込みで面接を受けて採用されている)。住吉酒造は下請けでアルコール類を製造する町工場でした。

社運を賭けスコットランド留学 エリーに出会う

ここでマッサンは、醸造学に造詣が深く探究心も強いことから社長の田中大作(西川きよし)に気に入られています。住吉酒造が目論んでいたウイスキー事業立ち上げの中心人物となるべく、社費(あるいは社長のポケットマネー?)でスコットランドへと留学し、この時に運命の人・エリー(史実ではリタ)と出会っています。

マッサンは二年ほどスコットランドの蒸溜所に潜り込んで学んだ後、エリーを連れて帰国。住吉酒造で日本初のウイスキーづくりを志しますが社の経営が傾き、ウイスキー事業を断念。苦渋の選択により住吉酒造を退社しています(史実では竹鶴は摂津酒造に6年ほど在籍した)。

浪人時代 「こひのぼり」の皿洗い

退社後の無職期間、マッサンは迷走を繰り返します。パン職人になろうと庭に突然パン焼き釜を造ったり、作家デビューを目指したりして、ついには家賃滞納をするまでに追いつめられます。この時期、馴染みの居酒屋「食堂こひのぼり」で皿洗いのアルバイトをして日々の生活をやり過ごしています。(史実では竹鶴は摂津酒造を退社後、桃山中学校で化学教師をしていた。浪人期間は1年と少しの間。)

少し長くなりましたので、記事をわけます。次の記事「マッサンの職歴、経歴まとめ②竹鶴氏略年表も 鴨居商店入社〜ドウカウヰスキー設立」では、マッサンが鴨居商店に就職して以降の経歴をまとめます。

「マッサン」モデル・竹鶴政孝の略年表

1894年(明治27年)6月 広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)に生まれる
1916年(大正5年)3月 大阪高等工業学校卒業 その直前に摂津酒造に入社
1918年(大正7年)6月 スコットランド留学のため神戸港から出航、半年近くかけてリヴァプール港へ
1920年(大正9年)1月 リタと結婚、同年11月に帰国、横浜港へ
1922年(大正11年)早春 摂津酒造退社、その後浪人時代を過ごす
1923年(大正12年)6月 寿屋入社
1924年(大正13年)11月 山崎蒸溜所竣工、所長に就任
1929年(昭和4年)4月 第一号「白札サントリー」発売 この年、横浜・鶴見のビール工場長も兼任
1934年(昭和9年)3月 寿屋を退職
1934年(昭和9年)7月 大日本果汁株式会社(のちのニッカウヰスキー)を設立
1935年(昭和10年)5月 日果リンゴジュース発売
1940年(昭和15年)10月 「ニッカウヰスキー」発売 社名も「ニッカウヰスキー」に変更 海軍監督工場に

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