「おちょやん」喜劇王・須賀廼家万太郎(板尾創路) モデルは曾我廼家五郎(曾我廼家兄弟劇・五郎劇)か

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NHK連続テレビ小説「おちょやん」に登場する喜劇王・須賀廼家万太郎(すがのや・まんたろう)。ヒロインたちに大きな影響を与えていく喜劇界の偉人の人物像、キャラクター設定などをまとめます。

須賀廼家万太郎は、実在の喜劇王・曾我廼家五郎(そがのや・ごろう)がモデルになっていると考えられますので、あわせてまとめておきます。

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目次

板尾創路演じる喜劇王・須賀廼家万太郎

須賀廼家万太郎は、喜劇団・須賀廼家万太郎一座を率いる大御所喜劇役者です。

その人気は大阪だけでなく、遠く東京でも抜群。「喜劇王」として長年君臨し、天海天海一座を牽引する天海天海、須賀廼家千之助らの前に立ちはだかります。

喜劇界の礎を築いた万太郎の存在は、新たな喜劇団・鶴亀家庭劇を立ち上げていく千代や一平ら次世代の喜劇人たちの大きな目標にもなっていきます。

▼芸人という枠にとらわれず、俳優、映画監督など幅広い活動を見せる板尾創路(吉本興業)。NHK朝ドラは「芋たこなんきん」「カーネーション」「まれ」に出演。

「日本のチャップリン」喜劇王・曾我廼家五郎がモデルか

板尾創路演じる須賀廼家万太郎は、こんにちの日本の喜劇の生みの親とされ「喜劇王」「日本のチャップリン」と呼ばれる曾我廼家五郎(そがのや・ごろう)がモデルではないかと推測されます。曾我廼家五郎は、人気喜劇役者・渋谷天外親子の前に巨大な壁として立ちはだかった偉人です。

曾我廼家五郎は、歌舞伎の大部屋俳優の出身。歌舞伎世界特有の慣習などに馴染めなかった五郎は、役者仲間で8歳年上だった曾我廼家十郎を誘い、明治37年に曾我廼家兄弟劇を立ち上げています。

(※)歌舞伎役者時代、五郎は「中村珊之助」、十郎は「中村時代」の名で舞台に立っていました。こんにちまで受け継がれる「曾我廼家」の芸名は、十郎五郎が歌舞伎の「曽我兄弟」から取り名乗ったのが最初でした。

狂言や俄から脱した「喜劇」の誕生 曾我廼家兄弟劇

この曾我廼家兄弟劇こそが、日本における喜劇の最初といわれます。

それまでの日本の滑稽劇といえば、狂言や俄などのオールドスタイルが主流。十郎五郎は、大阪俄から猥雑なくすぐりや駄洒落の要素を取り除いた現代的な芝居「喜劇(※)」を提唱し、まったく新しいタイプの庶民の笑いを創り上げていきます。

(※)「喜劇」という言葉は、尾崎紅葉の小説「喜劇夏小袖」(モリエールの「守銭奴」の翻案物)から五郎が戴いた。

上方の新しい笑いである曾我廼家兄弟劇は一躍大人気になっていきました。

当時多く存在した俄の諸グループもこの流行に追従し、類似喜劇団が曾我廼家フォロワーとして立ち上がっています。中島楽翁と初代渋谷天外により人気となった楽天会(※)もそうした劇団のひとつで、曾我廼家兄弟劇に追いつけ追い越せで公演を重ねていきます。

(※)「おちょやん」では、楽天会=天海天海一座、初代・渋谷天外=初代・天海天海として登場。また、曾我廼家兄弟劇=須賀廼家兄弟一座、五郎劇=須賀廼家万太郎一座として登場か。

十郎五郎の決別 五郎劇の一強時代

五郎はコッテリとした熱演型で、勧善懲悪の説教臭い人情喜劇の脚本を書くのが得意。一方の十郎の芝居は飄々とした可笑しさが武器。十郎の脚本はナンセンスでシュールな空気感をまとった作品が多く見られました。

どんなに五郎が熱演をしても、飄々と面白い十郎には敵わない…。そんな二人の微妙な関係性が、五郎劇十郎劇の分裂へと繋がっていきます。

やがて大正14年に十郎が亡くなると、日本の喜劇はいよいよ五郎劇の独壇場となっていきます。五郎劇は大阪だけにとどまらず、東京の大劇場でも公演を打てる唯一無二の人気劇団となっていくのです。

五郎は「日本の喜劇王」「日本のチャップリン」と呼ばれるようになり、後発の松竹家庭劇などは曾我廼家五郎ならびに五郎劇の打倒を目指し、対抗意識を燃やしていきます。※この五郎劇には十郎の弟子・曾我廼家十吾(千之助のモデル)も一時参加していましたが、五郎との折り合いが悪く(嫌われてしまった?)、十吾は退団。十吾は2代目・渋谷天外らと松竹家庭劇を立ち上げています。

「おちょやん」万太郎を目標とする千代と一平たち

「おちょやん」劇中で天海一平、千代、千之助(鶴亀家庭劇)らが喜劇王・須賀廼家万太郎一座を目標にしていく流れは、二代目・渋谷天外、浪花千栄子、曾我廼家十吾(松竹家庭劇)らが曾我廼家五郎の五郎劇をライバル、目標としたことをモチーフにしていると考えられます。

戦後に五郎が亡くなると五郎劇、松竹家庭劇、すいーと・ほーむ(二代目天外の独自劇団)は大合同をし、こんにちまで続く松竹新喜劇が誕生しています。稀代のスター役者・藤山寛美へと続く涙・笑い・人情の松竹新喜劇は、人情喜劇の祖・曾我廼家五郎の芸風が脈々と受け継がれているのです。

五郎は、晩年に喉頭がんを患い手術を受けて声を失いますが、退院後には無声役者(パントマイム)として舞台に上がるなど、役者としての執念を見せています。昭和23年1月には新たに建築された中座で十吾と20年ぶりに共演(かつて十吾は五郎劇に一時在籍)。同年11月、ついに五郎が死すと、前述の松竹新喜劇の設立構想という業界大再編が巻き起こったのです。

※「おちょやん」に登場する須賀廼家千之助は、2代目渋谷天外とともに松竹家庭劇・新喜劇を牽引した曾我廼家十吾(十郎の弟子)がキャラクターのベースになっていると考えられます。これに加え、曾我廼家兄弟劇を立ち上げて五郎と切磋琢磨した曾我廼家十郎、さらに初代渋谷天外とともに楽天会を牽引した中島楽翁の要素も千之助のキャラクターに組み込まれているようです。曾我廼家十吾、曾我廼家十郎、中島楽翁のいずれも、王者・五郎劇をライバル視した喜劇人といえます。

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