NHK連続テレビ小説「わろてんか」のヒロイン・藤岡てん(葵わかな)のモデルとなっている吉本興業創業者・吉本せい。この記事では、吉本せいの人生の年表を簡単にまとめていきます。
「わろてんか」は吉本せいの人生をモチーフにさまざまな改変が加えられ、オリジナルのストーリーが展開されます。そのため、この年表とはかなり違う出来事、時系列が描かれることが予想されます。
※年齢はその年の元旦時点のものを表記しています。
劇中ヒロインの年齢、年表については、以下の記事にまとめています。
・【わろてんか】ヒロイン・てん(年齢不詳)は今何歳?てんの人生年表、出来事まとめ
明治時代…結婚 寄席経営を始める
明治22年(1889年)せい・—歳
12月5日、林家の三女として、せいが生まれる 林家は12人兄弟の子だくさんだった
明治33年(1900年)せい・10歳?
せい、尋常小学校卒業後に北浜の米穀商・島徳蔵のもとに奉公に出される
明治40年(1907年)せい・17歳
せい、「箸吉」跡取り息子・吉本吉兵衛と結婚生活を開始
明治43年(1910年)せい・20歳
正式に婚姻届を提出 第一子(長女・喜代子)を妊娠
明治45年(1912年)せい・22歳
寄席「第二文藝館」を買収。夫婦で寄席経営をスタート
大正時代…吉本の礎をつくる 夫との別れ
大正2年(1913年)せい・23歳
「吉本興行部」設立。
大正3年(1914年)せい・24歳
大阪福島の寄席・龍寅館ほか、一年で四軒の寄席を買収。多店舗経営へ。
大正4年(1915年)せい・25歳
桂派の本拠だった「蓬莱館(旧・金澤亭)」を買収し「南地花月」とする。傘下の寄席に「花月」の名を掲げ始める
大正5年(1916年)せい・26歳
長男・吉本泰之助を出産するも早世
大正6年(1917年)せい・27歳
実弟・林正之助(当時18歳)が吉本興行部に入社
大正10年(1921年)せい・31歳
借金の弱みを狙い、初代・桂春団治を吉本に移籍させる
大正11年(1922年)せい・32歳
三友派の拠点「紅梅亭」を買収。全国28館の寄席を経営するまでに
大正12年(1923年)せい・33歳
吉本の後継者と期待されることになる次男・吉本穎右を出産。ここまで男児2人、女児6人を生んでいるが、多くが早世。同年、関東大震災が発生し吉本の救援隊を関東に派遣
大正13年(1924年)せい・34歳
夫・吉本泰三(吉兵衛)が急死。この頃から正之助が吉本の実質的な経営者に
大正14年(1925年)せい・35歳
東京、大阪、名古屋で日本初のラジオ放送が始まる
昭和時代(戦前)…「漫才」誕生 戦前吉本全盛期
昭和2年(1927年)せい・37歳
松竹と提携し「全国万歳座長大会」を開催
昭和5年(1930年)せい・40歳
正之助が横山エンタツをスカウトし、「エンタツ・アチャコ」結成。「漫才」の時代へ。桂春団治、ラジオ無断出演事件
昭和7年(1932年)せい・42歳
「吉本興業合名会社」に社名変更 せいが社長、正之助が総支配人に。東京支社が正式に開かれ、林弘高(実弟)が東京支社長に
昭和9年(1934年)せい・44歳
共同出資により「大日本東京野球倶楽部(後の巨人軍)」を設立。球団経営に携わる
昭和13年(1938年)せい・48歳
初代・通天閣を買収
昭和14年(1939年)せい・49歳
看板芸人・ミスワカナ、玉松一郎コンビが失踪劇を起こす
昭和18年(1943年)せい・53歳
初代・通天閣焼失 この頃、息子・穎右が笠置シヅ子に出会う
昭和19年(1944年)せい・54歳
戦争が激しくなり当局から大阪花月、南地花月などが休業を命じられる
昭和20年(1945年)せい・55歳
大阪大空襲、終戦 大阪の寄席はほぼ焼失し、吉本もほとんどの寄席を失う
昭和時代(戦後) 最愛の息子・穎右死去
昭和22年(1947年)せい・57歳
吉本穎右が結核で死去
昭和23年(1948年)せい・58歳
吉本興業株式会社に改組。せいは会長に
昭和25年(1950年)せい・60歳
せい、60歳で死去
▲この年表は「上方演芸大全」「吉本せい お笑い帝国を築いた女」を参考に作成しています。いずれも当時の大阪の「お笑い」の様子をわかりやすく記している良書。