NHK連続テレビ小説「あさが来た」第17週(1月25日〜)で、あさ(波瑠)の念願だった「加野銀行」が開業します。
この記事では加野銀行について、それに史実のモデルとなっている加島銀行についてまとめます。
両替商から銀行へ
加野銀行が開業するのは、明治21年(1888年)のこと。あさが15歳で広岡家に嫁いでから23年の月日が経っていました。
これまで長年の付き合いや信用を担保にして「両替商」を行なってきた加野屋でしたが、これからは「銀行」として志や明確な事業プランを持つ人を見極めてお金を貸し、事業の手助けをしていく業務が中心になっていきます。
加野銀行設立にあたり、これまで住み込みとして働いていた番頭、手代などの人員は通いとなり、肩書きも「番頭→支配人」などと変わります。従業員の処遇に関しては大奥様・よの(風吹ジュン)があさと掛け合い、開業後も各従業員に不遇がないように配慮がなされます。
あさは、銀行設立にあたり「銀行の神様」として知られる渋沢栄一(三宅裕司)から銀行経営の金言を授かります。
渋沢によれば、銀行経営で何よりも大切なことは「お金そのもの」ではなく「信用」である、とのこと。
信用があるところに自然とお金が流れるという銀行経営の根幹の考えを知ったあさは、客の窓口となる従業員の大切さを痛感し、従業員教育の場を計画していくことになります。
モデルは加島銀行
「加野銀行」のモデルである「加島銀行」は、ドラマと同じ明治21年(1888年)に「両替商・加島屋」を母体として開業しています。
「あさが来た」の原案である「小説 土佐堀川」には、発足した加島銀行に関する描写があります。以下、簡単にまとめます。
初代頭取には本家当主・広岡正秋(ドラマでは白岡榮三郎)が就任し(※)、正秋、信五郎(新次郎モデル)、浅子(あさモデル)がそれぞれ個人名義で出資。この三人で全体の七割の株を所有していました。※二代目頭取は信五郎。
当時、華族や士族を含め事業に不慣れな者までが銀行経営に乗り出す乱立状態にありましたが、浅子は渋沢の「信用が大切」という助言を守り、銀行員の接客、礼儀作法などを厳しく教育していきます。
女子行員を採用し、話題に
また、浅子は当時としては画期的な「女子行員」を採用し(当時の女子の仕事は女工や飯炊き、女給などが主流)、実務の知識や教養などを厳しく叩き込んでいます。
女子行員の服装は袴に矢絣の着物で揃えさせ、来客には爽やかに応対させました。現代のサービス業にも通じるこうした「イメージ戦略」もあり、加島銀行の評判は上がり、次第に口コミで客足は伸びていったとか。(ここまで「小説 土佐堀川」からの概要まとめ)
加島銀行のその後 恐慌の煽りで廃業
加島銀行は大阪、神戸、京都、東京、広島、岡山など各地に支店を広げ、有力な銀行に成長していきます。明治35年(1902年)には、大同生命保険の設立にも関与しています。
しかし、浅子が亡くなって18年後の昭和12年(1937年)、昭和恐慌の煽りを受けて経営危機に陥り廃業。各店舗は山口銀行、野村銀行、鴻池銀行、川崎第百銀行などに譲渡されています。
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