NHK連続テレビ小説「あさが来た」に登場する人物「成澤泉」についてまとめます。成澤は今後、あさにとっても重要な人物になっていきます。
この記事では、あわせて成澤泉のモデルとなっている実在の人物についてもまとめます。
重要人物・成澤泉
1月30日(土)放送回に、妻・カナエ(宮嶋麻衣)とともに初登場した成澤泉(瀬戸康史)。
美和の店・晴花亭で成澤夫妻と居合わせたあさ(波瑠)は、夢を語り食欲旺盛な成澤青年に感心するのですが、この青年が後に自身にとって重要な存在となっていくことを、この時は知る由もないのでした。
成澤泉は、学校教員やキリスト教の牧師を経てアメリカへと留学し、先進的な女子高等教育について学びます。帰国後、成澤は自身の夢である女子高等教育の発展のために奔走する中であさと出会います。
日本初の女子大学校設立という大仕事に賭ける成澤の情熱にあさも共感し、あさは成澤を応援していくことになります。
日本女子大学創設者・成瀬仁蔵がモデル
▼日本女子大学の創設者、初代校長として知られる成瀬仁蔵。 成瀬は1858年(安政5年)生まれで、広岡浅子より9歳ほど年下。
画像はWikipediaより転載(パブリックドメイン)。
この成澤泉という人物のモデルとなっているのが、明治から大正にかけて活躍した教育者、キリスト教牧師の成瀬仁蔵(なるせ・じんぞう)です。成瀬は日本の女子高等教育の先駆者であり、日本女子大学の創設者、初代校長として知られます。
幕末の周防国(山口県)に武士の長男として生まれた成瀬は、教育熱心な家庭環境もあり、18歳で小学校教員になっています。
その後山口を離れ、大阪・浪花教会でキリスト教徒となって梅花女学校の設立に関与。同校の主任教師を務めています。
成瀬は教職だけでなくキリスト教の伝道にも熱心で、梅花女学校を辞して奈良や新潟などに移り、布教活動を行なっています。新潟では新潟女学校の設立にも参加して校長に就くなど、布教活動とともに女子教育の実践、研究も続けました。
広岡浅子との出会い
成瀬があさのモデルである広岡浅子と関わりを持つようになるのは、アメリカに留学(キリスト教、先進的な女子教育を学ぶ)した後のこと。「あさが来た」の原案である「小説 土佐堀川」には、広岡浅子と成瀬仁蔵との邂逅の様子が描かれています。
それによれば、梅花女学校に娘を通わせていた実業家・土倉庄三郎の紹介により浅子との面談にこぎつけた成瀬は、ボロを纏いながらも堂々とした態度で、浅子に女子教育の必要性を訴えています。
日本初の女子大学設立への協力を要請する成瀬に対し、浅子は多忙を理由に一度は断る(浅子の元には他にも女学校設立への協力要請が多数来ていた)のですが、成瀬の著書「女子教育」を読むと、その考えに深く感銘を受けることになります。
浅子はすぐに成瀬に対し、学校設立への協力を約束しています。
商人・浅子の能力が大きく貢献
「小説 土佐堀川」の描写によれば、成瀬仁蔵は高い理想やピュアな情熱を持つものの、経営センスや事業戦略等、実務方面にはトンと疎い人物。商いの世界で百戦錬磨の経験を持つ浅子が協力したことで、成瀬が描いた夢は現実的なものとなり、実現に向けて大きく前へ進んだようです。
「あさが来た」の成澤泉もまた、真っすぐな情熱を持つ猪突猛進型の人物のようです。女子大学校設立は理想や情熱だけでは到底実現することが難しい大事業。実業界に対し広く見聞、人脈を有するあさの能力が活かされることになりそうです。
なお、モデルである成瀬仁蔵は病弱だった妻・マスエ(満寿枝)と離縁しており(マスエは離縁後二年で亡くなっている)、成澤泉と妻・カナエとの今後の関係性も気になるところです。
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