2015年6月20日(土)に放送されたNHK番組「ブラタモリ」でも取りあげられた「川越舟歌(かわごえふなうた)」についてまとめます。
「小江戸」として知られる埼玉県川越市。城下町として栄えた川越は江戸時代、新河岸川を利用した舟運(しゅううん)により江戸と密接な交流を持っていました。「川越舟歌」は、川越から浅草・花川戸までの道中三十六里(144km)において船頭が歌った唄で、「新河岸川舟歌」「千住甚句」(千住宿の酒席で唄われた)などとも呼ばれます。
▲川越「蔵造りの町並み」。東京では失われてしまった「江戸」が見られるとして、近年人気上昇中の観光地。
Photo by ロケTV
以下、歌詞を引用掲載します(パブリックドメイン)。
民謡「川越舟歌」歌詞
ハァー 押せや押せ押せ エー
二挺艪(にちょうろ)で押せや
(アイヨノヨ)
押せば千住が 近くなる
(アイヨノヨトキテ ヨサガリカイ)九十九曲がり 仇(あだ)では超せぬ
通い舟路の 三十里千住出てから 牧の谷(まきのや)までは
竿も艪櫂(ろかい)も 手に付かぬ船は千来る 万(まん)来る中で
儂(わし)の待つ船 未(ま)だ来ない追風(おいて)吹かせて 早や登らせて
今度下りは 待つわいな川越辺りを 夜更けて走りゃ
可愛いあの娘の 声が無い主が竿さしゃ 私は艫(とも)で
舵を取り取り 艪をば押す
大火での喜多院焼失が舟運開通のキッカケ
寛永15年(1638年)の大火で喜多院、川越仙坂東照宮が焼失すると、当時の喜多院住職・天海大僧正(1536-1643)に恩義のあった三代将軍・徳川家光は、喜多院再建の手助けのために江戸城西の丸・紅葉山の御殿の一部を喜多院に移築するように命じます。
この時に建築資材等を運ぶために新河岸川の舟運が開かれ、その後、江戸から昭和初期にかけて新河岸川の舟運は江戸川越間を結ぶ重要な交易ルートとして繁栄します(東武東上線開通とともに、舟運は衰退の途をたどる)。
この舟運により、川越から江戸に米、木炭、茶、繭(まゆ)などが、江戸から川越には砂糖、酒、小間物などの日用品が運ばれ、天保年間頃(1830〜1844年)からは乗客も扱うようになっています。
「九十九曲がり」退屈な道中での舟歌
川越を出て引又、新倉、戸田、千住、浅草花川戸へと至るルート(新河岸川→荒川)の当時の所要時間はおよそ一日。道中はたっぷりと時間があり、船頭が乗客にせがまれたり眠気を覚ましたりする目的で、「川越舟歌」が歌われたとされます。
当時の新河岸川は、河川改修により「九十九曲がり」と呼ばれるほど多数の蛇行・湾曲がつくられていました。これは水の流れを悪くすることで水かさを増やし、大型船でも通行出来るようにしたもの。
「九十九曲がり」は明治43年(1910年)に起きた大水害により再度河川改修がなされ、川筋が真っすぐになったことで失われましたが、「川越舟歌」には往時の「九十九曲がり」の風景が残されています。
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